宝蔵院跡(読み)ほうぞういんあと

日本歴史地名大系 「宝蔵院跡」の解説

宝蔵院跡
ほうぞういんあと

[現在地名]妙高村関山

関山せきやま神社境内北側、約五〇メートルの遊園地跡地がある。明治の廃仏毀釈まで関山三社権現の別当であった。江戸時代初期より天台宗東叡山末妙高山雲上寺宝蔵院と号した。関山宝蔵院系図(宝蔵院文書)によれば「中興開基慶也上人」とあるが、一般には中興開基は俊海で、上杉謙信の甥といわれ、正保三年(一六四六)正月二七日没と伝える。俊海中興以前は真言宗であった。関山三社権現がもっとも繁栄したのは上杉謙信の頃といわれる。謙信は俊海を関山権現の座主とし、当時は七堂伽藍七〇余坊が林立し、勧学・山伏修験の場として繁栄していたという。その寺坊の一つが宝蔵院である。そのほか安楽院・法経院・覚明院・平等院・小野寺・天狗堂・修業堂・権現堂・十王堂・天神堂・加持堂・観音堂などの廃寺、神明社・神経屋敷・八幡社・稲荷社などの廃社、小字名として行坂・七坊町・仏供免・仁王門・学頭免・代官屋敷などが現在確認されている。

宝蔵院跡
ほうぞういんあと

京街道とのぼり大路との四辻の南東、現奈良国立博物館の北西辺にあった興福寺の一院で、槍の宝蔵院とよばれたが、明治の廃仏毀釈で壊され、いまは井戸跡を残すのみ。覚禅房胤栄が十文字槍を創案し、以後代々宝蔵院流槍術を伝えた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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