関山村(読み)せきやまむら

日本歴史地名大系 「関山村」の解説

関山村
せきやまむら

[現在地名]妙高村関山

妙高山北東麓にあり、北国街道が南北に通り、北は江口えぐち新田(現中郷村)、南は坂口さかぐち新田に接する。宿駅としては、北の松崎まつざき(現中郷村)から南の二俣ふたまた(現妙高高原町)へ継いだ。妙高信仰の中心をなす関山三社権現(現関山神社)が所在するため、古くから開けていたと思われ、中世には信州口の要衝として重きをなし、別当宝蔵ほうぞう院を中心とする僧兵もいたという。「源平盛衰記」巻二七によれば、治承五年(一一八一)木曾義仲を討つため、城資職は「今日は越後国府に著、明日は当国と信濃との境なる関の山を越さんとす」とあるのが当地と思われる。所在地は不明だが、関山辺りにあった青野あおの関が、中世関川せきがわ(現妙高高原町)に移されたという。弘治三年(一五五七)二月武田晴信は越後勢の立籠る葛山かつらやま(現長野市)を落し(同月一六日「長尾景虎書状写」古案記録草案所収文書)、さらに戸隠とがくし(現長野県上水内郡戸隠村)へ兵を派したので、戸隠の一山の衆徒は石山(関山)へ逃れ、上杉謙信に助けを請うたという(戸隠記)。天正一〇年(一五八二)には、信州より侵入した織田信長の将森勝蔵長可により、当地一帯は灰燼に帰した。

新井、高田たかだ直江津なおえつ(現上越市)と信州牟礼むれ(現長野県上水内郡牟礼村)を結ぶ北国街道は佐渡の金山と江戸を結び、越後・越中・加賀の諸藩の参勤交代路であり、諸国産物の流通路でもあり、また関山三社権現・信濃善光寺への参詣路としても繁栄した。

関山村
せきやまむら

[現在地名]東根市関山

みだれ川扇状地扇頂部に位置し、享保六年(一七二一)東根領覚書(横尾文書)に東は関山峠を越えて仙台藩領、西は沼沢ぬまざわ村まで二〇町余とある。関山川が西流し、大滝おおたきで瀑布をつくり、その下流が村内を流れて乱川となる。蓮如の高弟願正坊は出羽国での布教を命ぜられ、文明一五年(一四八三)関山峠を越えてまず当村で布教を開始、初めて木樵又助を信者としたという。

最上氏領から天和八年(一六二二)山形藩領、寛文八年(一六六八)下野宇都宮藩領、天和元年(一六八一)陸奥白河藩領、寛保元年(一七四一)以降幕府領

関山村
せきやまむら

[現在地名]塩沢町関山

北はせき村、東の魚野うおの川対岸で飯士いいじ山北西麓に関新田・かみひら五十嵐いからしの集落がある。南は湯沢ゆざわ(現湯沢町)、西は山地で田沢たざわ(現中魚沼郡中里村)。川西の旧三国街道沿いに関山・土堂つちどう鎌留かまどめ、西の山寄りに上村うわむら古城こじようの集落がある。正保国絵図に村名がみえ、高三二〇石余。天和三年郷帳では高三一九石五斗余。宝暦五年(一七五五)の村明細帳(小千谷市立図書館蔵)では田一九町五反余・畑一〇町四反余、家数七三、男二三八・女一七七、馬八〇。「新編会津風土記」では家数六四、上村二〇・古城六・土堂三・鎌留四・五十嵐一五。

関山村
せきやまむら

[現在地名]会津本郷町氷玉ひだま

下野街道に沿い、北は福永ふくなが村、南は氷玉峠を越えて大内おおうち(現下郷町)へ続く。もとは福永村の端村で、古戸須美沢ふるとすみさわと称し民居が散在していたのを、寛永一八年(一六四一)当地に集めて駅所とし、正保三年(一六四六)独立した村とした。同時に独立村とされた上小松かみこまつ村とは田圃も民家も雑居して一村のようであった(新編会津風土記)。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に「ふつこし」が古戸須にあたると推定され、高三〇一石余。「会津風土記」に村名があり、「端村二、曰高松、曰橡沢」と記される。橋爪組に属し、文化一五年(一八一八)の村日記では高五九〇石余。

関山村
せきやまむら

[現在地名]寄居町鉢形はちがた

白岩しらいわ内宿うちじゆく両村の東に位置する。戦国期鉢形城の城下にあたるといわれ、当村の小名には関山小路せきやまこうじ猿楽場さるがくばなどの呼称が残る(「風土記稿」など)。田園簿では高二〇一石余はすべて畑で幕府領。明暦元年(一六五五)の鉢形領総検地では、反別は二二町五反余(田二町五反余・畑一八町六反余・屋敷一町四反余)となっている(「検地帳」杉田家文書)。同年甘粕あまかす村を分村したとみられる。寛文三年(一六六三)忍藩領となる(「寛文朱印留」など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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