実久村(読み)さねくむら

日本歴史地名大系 「実久村」の解説

実久村
さねくむら

[現在地名]瀬戸内町実久

薩川さつこ村の北西に位置し、加計呂麻かけろま島の北西端にあたる。集落は瀬戸内の入江に臨む。北西に江仁屋えにや離島があり、黍作や塩焼などが行われた。保元の乱に敗れた鎮西八郎為朝が伊豆大島から沖縄島に向かう途中に当地にとどまり、シマの女との間に一児を設け、これがのち実久三次郎という英雄になるという伝承がある。西にし間切実久方のうち。正保琉球国絵図に村名の記載はないが、浜方に「われ瀬」(破瀬)・「ゑにや」(江仁屋)がみえる。「大島私考」には実久方一三ヵ村のうちとして「実久村」とみえ、高六三石余、うち享保内検後の開地は三石余、永損七石余。

実久村
さねひさむら

[現在地名]米子市榎原えのきはら

大谷おおだに村の東にあり、東の丘陵を越えた東端法勝寺ほつしようじ川が流れる。大谷村枝郷で、享和三年(一八〇三)新田村として届出され、明治三年(一八七〇)分村したとされるが(藩史)青木あおき神社の延宝七年(一六七九)銘の棟札、実久神社の元禄六年(一六九三)の銘の棟札にはすでに実久の村名が記されている。天保郷帳では大谷村に含まれる。幕末の六郡郷村生高竈付では生高四八一石余、竈数三〇。「伯耆志」では林二町六反余、家数三〇・人数一二〇。本免は四ツ。享保一五年(一七三〇)二月の当村願書などによれば、当村は牛馬放牧地がなく薪山も少ないので、出雲国安田やすだ(現島根県伯太町)入山を許可されていたが、小松谷こまつだに川上流の小松山に兼久かねひさ村がもつ入山権を返上することを知り、当村に代りに小松山御免札を与えられるよう嘆願、許可された(在方諸事控)

実久村
さねひさむら

[現在地名]東与賀町大字下古賀しもこが字実久・立野たての

立野村南西。標高三メートル線上にあり、有明海干潟干拓へ移行していった鎌倉時代の海岸線地帯とみられている。正保絵図に村名がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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