六所神社(読み)ろくしよじんじや

日本歴史地名大系 「六所神社」の解説

六所神社
ろくしよじんじや

[現在地名]大磯町国府新宿

国府新宿こくふしんしく北東部の平坦地に杉木立に囲まれて鎮座する。東海道に面して鳥居があり、その北の奥まった所に神殿がある。祭神は稲田姫命。素盞嗚命・大己貴命を合祀する。相模国の総社。近世には国府新宿こうしんしく村・生沢いくさわ村・虫窪むしくぼ村・国府本郷こうほんごう村の鎮守。「風土記稿」によれば当社の前身は当地の古名柳田やなぎだ郷の鎮守で別名柳田大神ともいうとあり、相模国の国府が平安時代末期余綾よろき郡に移って以後総社となったものか。旧郷社。

「吾妻鏡」治承四年(一一八〇)一〇月一六日条によれば駿河国へ向かう途中の源頼朝が同夜「相模国府六所宮」に到着したとある。建久三年(一一九二)五月八日の鎌倉南御堂みなみのみどうで行われた後白河法皇の四十九日の仏事に「六所宮二口」の僧が参列している。八月九日条には北条政子の実朝出産の際、頼朝が安産祈願のため神馬を奉納した神社のなかに「惣社柳田」とみえる。天文一三年(一五四四)一二月二三日の供僧中・社人中宛の北条家朱印状写(県史三)によれば社領六五貫七八文の使途の配分を決め、卯年(天文一二年)の増分三〇貫五〇三文は造営の費用とされている。また田畠をもつ社人・百姓が年貢を難渋すれば小田原へ注進し、所を払うよう命じられている。永禄七年(一五六四)一二月一一日の北条家朱印状写(同書)によれば神領の書出しを来る二〇日に提出するよう命ぜられている。

六所神社
ろくしよじんじや

[現在地名]松江市大草町 六所

東流する意宇川の北岸に鎮座し、境内北側に出雲国府跡が広がる。祭神は伊邪那岐命・伊邪那美命・天照大神・月夜見命・素盞嗚尊・大己貴命。旧県社で、社殿は大社造。創建時期は不明だが、中世には出雲国衙が公的な立場において祭祀を行う出雲国惣社で、六所の社号は戦国期から登場する。元久二年(一二〇五)四月二二日の関東下知状(北島家文書)によれば、「出雲国惣社」の神官らが大草おおくさ郷地頭代官家重の狼藉を訴えており、執権北条時政は出雲国守護に両者の言い分を聞いて沙汰するように命じている。本来国衙関係神社であった惣社に、建長年間(一二四九―五六)に杵築大社(出雲大社)の国造出雲義孝の支配が及んでくる。建長三年八月には国衙在庁官人と思われる助時の支配していた出雲郷(現東出雲町)の惣社八月朔幣料田一町の沙汰および所役の勤仕を改めて義孝に命じており(「出雲国司庁宣」千家家文書)、同時に大草郷にあった惣社灯炉田一町を伊弉諾いざなぎ(現真名井神社)造営のための料田とし、義孝が沙汰することとしている(「出雲国司庁宣」同文書)

六所神社
ろくしよじんじや

[現在地名]豊田市坂上町 東宮口

標高六一一メートルの六所山山麓の六所神社と、山頂の六所神社(上宮)・別称隠居神様のはちみね神社三社の総称。六所山は本宮ほんぐう山・猿投さなげ山とともに三河三霊山の一つ。祭神大山祇命・日本武尊ほか七柱。旧県社。蜂ヶ峰神社の東北数十メートルの一帯に平安から室町にかけての土器片が発見されており、近辺の平坦地を寺屋敷てらやしきといい宝寿ほうじゆ院跡と伝えている。

六所神社
ろくしよじんじや

[現在地名]岡崎市明大寺町 耳取

明大寺みようだいじ山の丘陵が北へ延びた先端を削平した高台に西面して立地。祭神は猿田彦命・塩土老翁をはじめ一五神。旧県社。社伝では松平氏初代親氏が加茂郡の六所山に奥州塩釜六所大明神を勧請したのに始まるという。加茂六所神社(現豊田市)奉加帳は、大永七年(一五二七)一二月に焼失した社殿の再興費用の奉加を求めたもので、「抑当社大明神者、当国鎮守之霊苗、郡村加護之明神也、就中松平一党之氏神、先祖崇敬之霊社也」といい、松平五代長親の道閲が一〇〇疋、六代信忠の祐泉が五〇〇疋を奉加している。

六所神社
ろくしよじんじや

[現在地名]志摩町馬場

馬場ばばの本村集落にある。旧県社。祭神は伊弉冊尊・速玉男命・事解男命・中筒男命・表筒男命・底筒男命。六所権現とも称した。志登しと(現前原市)の志登社に代わって志摩郡の惣社となる(続風土記)。享禄四年(一五三一)一二月一一日、大友義鑑が志摩郡代臼杵親連に馬場六社大明神本社一宇を再建させた。この時の神主は行弘大和中原朝臣正道であった(地理全誌)。天文期(一五三二―五五)には荻浦おぎのうら(現前原市)の由比重富氏が神官を勤めた。戦国期に破壊されたが、寛永八年(一六三一)に福岡藩二代藩主黒田忠之が再興し(続風土記拾遺)、以後、黒田家が再三社殿を修理した。

六所神社
ろくしよじんじや

[現在地名]引佐町渋川

大橋おおはしの丘陵上に鎮座する。椎・樫・杉の巨木が社叢をなす。祭神は底筒男命ほか五神。旧郷社。かつては六所大明神と称された。康安二年(一三六二)二月六日の年紀銘をもつ社蔵棟札に「奉造立 六所大明神 御社一宇」とみえ、大檀那は沙弥宗有(井伊直貞)であったが、これが創建時のものかは不詳。応永一六年(一四〇九)二月二九日に井伊直秀が社殿を造立しており(「棟札銘」六所神社蔵)、永享八年(一四三六)九月二五日には井伊直幸を大檀那として禿董らによって宝殿が造立された(「棟札銘」同社蔵)

六所神社
ろくしよじんじや

[現在地名]春野町領家

気田けた川右岸の字しもたいらにある。祭神は天児屋根命・中筒男命等六神。「掛川誌稿」によれば、犬居いぬいの総鎮守で一宮と称された。当社はもとは堀之内ほりのうち村の市場いちば境の路傍にあったが(同書、「遠江国風土記伝」所載犬居古城図)、文政一一年(一八二八)六月晦日の洪水で流失したため、領家りようけ村の村民が相談した結果、社壇を高くして現在地に移し、天保二年(一八三一)秋再建した(天保四年「棟札」当社蔵)。当社に残る最古の棟札は天正一七年(一五八九)一一月「周智郡犬居郷下之領家六所之大明神」の社殿が造立された時のもの、地頭大久保七郎右衛門(忠世)とその代官後藤弥次兵衛直成を大本願として造立された。

六所神社
ろくしよじんじや

[現在地名]山添村大字峰寺

峰寺みねでら集落西部の丘尾に位置する。祭神は速日にぎはやひ命・天忍穂耳あめのおしほみみ命・天穂日あまのほひ命・天彦根あまつひこね命・熊野忍隅くまのおしくま命。旧村社。口碑ではもと神体であった岩の上に後世、本殿を造営したといい、文禄年間(一五九二―九六)六所権現を改め六所大明神と称したと伝える。元禄五年(一六九二)および宝永三年(一七〇六)九月二七日の遷宮には、能や題目立を奉納した(山本平左衛門忠辰日並記)。「大和志」には「岑寺村坐神祠 本村及的野松尾相共祭祀」とある。

六所神社
ろくしよじんじや

[現在地名]酒々井町墨

高崎たかさき川中流左岸、向墨の広畑むこうずみのひろばたけに鎮座。旧村社。祭神は天御中主命。武士相原(粟飯原)文治郎とのゆかりを伝える。江戸時代には六所大明神と称し、真言宗泉光せんこう(現廃寺)が管理していた。明治四一年(一九〇八)向墨の鏡丁かがみちようの諏訪神社、同馬場ばばの熊野神社、前墨の小盛田の鷲こもつたのわし神社、同大坂おおさがの浅間神社、旧古沢ふるさわ村内のはなさく粟主あわのす神社、同浅間脇せんげんわきの浅間神社を合祀(神社明細帳)

六所神社
ろくしよじんじや

[現在地名]旭村大字佐々並

根引ねびき山の南東麓にある。伊弉冉尊を祭神とし、速玉男尊・事解男尊・菓理媛神・道返大神・泉道守者神を配祀。旧郷社。明治四年(一八七一)六所権現宮から現社号に改称。

「注進案」に記す社伝には「阿武郡六所権現ハ熊野十二所権現也、当所高須越峠ト申山ノ洞ニ飛行有之其節之年号不知之候(中略)弘安六年佐々並下郷ニ勧請」として、弘安六年(一二八三)に勧請したとあり、同年の棟札の写によれば「前建立弘安六年未九月廿九日、意趣者天長地久為御願円満也、願主源介国敬白」とある。当社所蔵の棟札によれば、その後、貞和二年(一三四六)、永享八年(一四三六)、明応六年(一四九七)、永正一四年(一五一七)、寛文六年(一六六六)に造営されたことが知られる。

六所神社
ろくしよじんじや

[現在地名]香々地町夷

東夷ひがしえびす谷のほぼ中ほど字東南払つのんばらいに鎮座する。旧村社。社伝では養老二年(七一八)二月六郷山寺院の夷山霊仙れいせん寺の鎮守社として現在地に祀られたと伝える。旧称は六所権現社、その祭神は神功皇后・比売大神・隼総別皇子・大葉枝皇子・小葉枝皇子・雌鳥皇女の六神。明治初年に六所神社と改称するが、この時から祭神も伊弉諾命・八十禍津日之神・大直日神・表筒男神・中筒男神・底筒男神(大正六年建立沿革碑ほか)の六神としたものであろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

事典 日本の地域遺産 「六所神社」の解説

六所神社

(愛知県岡崎市明大寺町字耳取43-1)
ふるさとの森」指定の地域遺産。
面積11,400【m2】

出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報

デジタル大辞泉プラス 「六所神社」の解説

六所神社

愛知県岡崎市にある神社。徳川家の祖先、三河松平家の産土神。本殿、拝殿など多くの建物が国の重要文化財に指定されている。

出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報

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