改訂新版 世界大百科事典 「庚申信仰」の意味・わかりやすい解説
庚申信仰 (こうしんしんこう)
庚申の日に徹夜して眠らず,身を慎めば長生できるという信仰。
中国
庚申の信仰は,晋の葛洪(かつこう)の《抱朴子》に,人間の体内には三尸(さんし)がおり,庚申の日に天に昇って,寿命をつかさどる神に人間の過失を報告し早死させようとすると記すことに由来する。くだって梁の陶弘景の編纂した《真誥(しんこう)》には,庚申の日に,夫妻は同席せず,終夜,尸鬼の警備にあたるべきことが説かれ,北周の《無上秘要》には,この日,昼夜,清斎して神を思えば三尸は天に昇って人の罪状を告げることができないと述べている。したがって庚申信仰の原形は南北朝時代には確立されていたとみられる。ついで晩唐の許渾の詩には〈守庚申〉の集まりのことが見え,段成式の《酉陽雑俎(ゆうようざつそ)》には,7度,庚申を守れば三尸が滅するとされ,宋の《雲笈七籤(うんきゆうしちせん)》にも,同様のことをのべる。また宋代の善書《太上感応篇》には,《抱朴子》の記述が踏襲され,その影響もあって,以後,広く〈守庚申〉のことが行われた。
執筆者:砂山 稔
日本
日本では,庚申信仰は中国の道教で説く三尸説を中心に,仏教,神道,修験道,呪術的な医学,日本の民間のさまざまな信仰や習俗が習合して独自な展開をした。日本に庚申信仰が伝わったのは,おそらく8世紀の後半で,朝鮮半島経由ではなかったかと思われる。これは円仁《入唐求法巡礼行記(につとうぐほうじゆんれいこうき)》承和5年(838)11月26日の条に,その晩に中国の人はみな寝なかったのは,日本の正月庚申の夜と同じと記されているためである。10世紀になると,天皇を中心とする庚申待が,宮中で恒例として行われたが,そのやり方は,中国の仏教で行った守庚申会と同様に,参集の王卿や侍臣たちに酒饌を賜り,碁,詩歌管絃その他の遊びをしながらの徹夜であった。形式こそ道教の説く三尸説とちがうが,目的と精神とは三尸説と同様,長生きであった。したがって,碁などの遊びは眠けざましの方便であった。藤原頼長や源俊房だけは,老子の画像をかけて《道徳経》を講読したり,ある宗教儀礼を行っているが,その他の公卿や武将たちは15世紀前半ごろまでは,従来同様のやり方で庚申の晩に徹夜をしていた。
ところが,15世紀の後半には,《老子守庚申求長生経》に基づいて,僧侶によって《庚申縁起》がつくられ,これが庚申信仰のよりどころとなる経典とされて,仏教的な信仰が発生した。こうして,庚申講が組織されることになったが,17世紀初頭までは,まだ一般庶民のあいだには普及しなかった。けれども,15世紀の後半以後庚申塔の前身である庚申板碑が造立されはじめ,庚申の夜の徹夜も庚申待と呼ばれるようになった。16世紀末には,宮中においてさえ〈庚申の本尊〉をかけるようになったから,仏教的庚申信仰がしだいに力を得ていったことがわかる。仏教的庚申信仰が広く一般に普及したのは江戸時代だが,この時代は日本の庚申信仰史のうちで,もっとも多彩で,しかもさかんな時代だった。天皇,大名,武士,農民,町人すべての人々が庚申待を行い,庚申講も各地で多く組織され,それらの人々の手によって,庚申塔も多く造立されはじめた。庚申塔は,今日では60年に1度の庚申年に造立すると考える所もあるが,本来は3年間連続庚申講を行った18回目に,大きな供養をした記念に造立する供養塔だった。このような風潮に刺激されて,山崎闇斎が猨田彦大神(さるたひこのおおかみ)を本尊とする神道式庚申信仰を説きだす一方,修験道でもそれなりの庚申信仰を鼓吹したから,江戸時代には3通りの庚申信仰が行われていたことになる。青面金剛(しようめんこんごう)童子を庚申の本尊とする考えが定着したのも,四天王寺の庚申堂以下の庚申堂が各地に建立され,現在いわれている御利益やタブーが説かれだしたのも,江戸時代であった。明治の廃仏毀釈で衰えたが,第2次大戦までは各地でさかんに信仰されていた。
執筆者:窪 徳忠 庚申信仰が民間に広まりはじめたのは室町時代後期とされ,近世に入ると各地で庚申講が結成されてもっとも一般的な講集団となった。庚申講は村落の全戸または有志で組織され,庚申の日のたびに宿に集まって庚申の画像をかかげて真言や般若心経を唱えてまつったあと,共同飲食しながら夜を徹して談笑した。〈話は庚申の晩〉というように,この夜は昔話など村の諸伝承が伝えられるよい機会であった。また庚申講は葬式組や金融の互助組織を兼ねたり,庚申供養塔や塚を築いたりした。庚申信仰は早くから猿を神使とする日吉山王信仰と結びつき,のちには猨田彦に付会されて道祖神と習合したり,三猿が庚申塔に刻まれたりした。近世には山王に代わって青面金剛が庚申の本尊とされるようになり,さまざまな伝承が生まれたが,猿の信仰はそのまま残った。庚申は土地によって作神,福神,治病神など多くの現世利益的な機能を果たしている。庚申の夜は徹夜し謹慎して過ごすほかに,夫婦の同衾が禁ぜられていた。もしこれを犯せば不具や盗人の子どもが生まれるといい,またこの日生まれた子どもが盗人にならぬように金の字の名前をつける風習もあった。このほか,庚申の日には洗濯,裁縫,夜業,結髪,鉄漿(かね)つけも禁ぜられ,山や漁にも行かない所が多い。また庚申には精進料理を用い,供物は七色菓子のほか,だんごや果物などまるいものや赤飯,小豆粥など赤いものがよいとされる。歯固めや腹の掃除だといって,いり豆やこんにゃくを食べる所もある。ほかに,庚申信仰の習俗として,地震や火事があれば庚申待をやりなおすことや初庚申に左縄を家のはりに結びつけて火難や盗難よけとすること,また60年に1度の庚申年は富士の御縁年といって富士登山をすることなどもみられる。
執筆者:飯島 吉晴
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報