宮山村(読み)みややまむら

日本歴史地名大系 「宮山村」の解説

宮山村
みややまむら

[現在地名]寒川町宮山

西境を相模川、中央を北東から南西へ目久尻めくじり川が流れる。一之宮いちのみや村の北にある。村内に相模国一宮の寒川神社がある。小田原衆所領役帳に山角四郎右衛門「拾貫文 一宮之内大宮分朝日共」とある。正保国絵図には「宮山」とあるが、元禄郷帳・天保郷帳では「宮山三郎右衛門組村」「右同所下組村」「宮山藤兵衛組村」「同所十五日免村」「同所朝日村」に分れている。この「朝日村」が役帳に記される「朝日」にあたると思われる。「風土記稿」は「今は村内を五組に田畑を分裂し、村名は正保の改に従ひ宮山と総称せり」とする。文化五年(一八〇八)の村明細帳(杉山文書)では宝永二年(一七〇五)に五組に分れ、名主五名が置かれたという。


宮山村
みややまむら

[現在地名]鴨川市宮山

なか村の南西、加茂かも川上流域に位置する。江戸時代初期は仲村・大川面おおかわづら村とともに吉保よしほ村と称した。元禄郷帳に「吉保宮山村」とみえ、高四八二石余。元禄一五年(一七〇二)に旗本酒井領になる。元文村高帳でも同高で、うち三七六石余が酒井領。以後幕末まで同氏領(旧高旧領取調帳など)。天保村高帳では高五〇一石余。「嶺岡五牧鏡」によると、嶺岡見取年貢を上納しており、嶺岡みねおか牧沿いに三ヵ村の枝郷で八町はつちようという居村があった。八町嶺のくぼんだ所には牧士の番小屋(八町陣屋)があり、八町裾野の鳴沢なるさわひがし牧と西牧の境であった。


宮山村
みややまむら

[現在地名]柵原町宮山

安井やすい村の北と東に位置し、北西は馬伏まぶし村、北東は堂尾どうのお(現津山市)。戦国末期には宇喜多氏方の城塞があり、天正七年(一五七九)秋頃より毛利勢の攻撃が行われている(一〇月一一日「穂田元清書状」厳島野坂文書など)。同八年とされる一月九日の吉川元春書状(萩藩閥閲録)では、湯原右京進に即刻宮山を討果すよう命じている。同年夏には落城したと思われ(七月三日「吉川元長書状」同書)、一一月一三日には有福民部大輔を在番としている(「小早川隆景・福原貞俊連署宛行状」同書)


宮山村
みややまむら

[現在地名]明野町宮山

観音かんのん川左岸の平坦地にあり、北は宮後みやご村、南は押尾おしび村。東西一四五町・南北は一〇町余(「銘細帳」西村家文書)。元亨四年(一三二四)一一月一〇日の平光泰具書渡状(円覚寺文書)に、「正続院候、常陸国椎火郷内宮山田地・屋敷具書等事」とあり、平光泰が宮山の田地・屋敷およびその関係文書を正続院に譲渡している。文禄五年(一五九六)の御蔵江納帳(秋田県立図書館蔵)には「高百九十四石七斗 此内四十四石弐斗弐升 荒 定納四十四貫弐百五文 宍戸預り宮山」とあり、佐竹氏の支配下にあった。


宮山村
みややまむら

[現在地名]常滑市金山かなやま青海せいかい

東は石瀬いしぜ村・前山まえやま村に接する。宮山の名は、融通念仏宗良忍が建立した宮山寺に由来。金蓮こんれん寺と名を改めた宮山寺は、一二坊を数える大寺であったが、戦国期に兵火にあって滅びたという。室町期に佐治氏は、当村の北の宮山城(大野城ともいう)居城大野おおの谷一帯を支配した。城跡は伊勢湾を望む丘陵地帯にあり、東西一五間・南北七〇間(「知多郡宮山村古城之図」蓬左文庫蔵)

「寛文覚書」によれば、概高一二九石余、田三町八反余・畑四町六反九畝。


宮山村
みややまむら

[現在地名]西原村宮山

東は阿蘇外輪山を境に下久木野しもくぎの(現久木野村)、西は布田ふた村、南は木山きやま川を境に上益城かみましき河原かわはら村、北は小森こもり村と接する。阿蘇外輪山の山地にある村で、集落は西部の緩傾斜地に立地する。近世には布田手永に属し、「南郷事蹟考」に「日向多々良袴野等ノ小村アリ」とみえ、熊本藩家老米田家の知行地。肥後豊後検地諸帳目録(県立図書館蔵)に寛永一〇年(一六三三)の宮山村の地撫帳がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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