日本大百科全書(ニッポニカ) 「容閎」の意味・わかりやすい解説
容閎
ようこう / ロンホォン
(1828―1912)
中国、清(しん)末の改革主義者。広東(カントン)省中山県に生まれ、マカオで洋式教育を受け、1847年中国人最初の留学生として渡米。50年エール大学に入学し、52年アメリカに帰化。54年同大を卒業し帰国したが、冷遇され、通訳、茶や絹の買付けを業とした。60年洪仁玕(こうじんかん)に軍事、教育、金融などの近代化策を進言したが受け入れられず、太平天国に失望した。63年曽国藩(そうこくはん)に官営兵器工場設立を献策し、曽の依頼によりその設立に尽力した。70年天津(てんしん)教案には交渉委員丁日昌(ていじつしょう)の通訳として随行し、曽にアメリカへの留学生派遣を進言、72年実現し、留学生の監督として渡米、75年からは駐米副公使を兼務した。以後、日清戦争では戦争継続のための外債を計画し、翌96年国立銀行設立、北京(ペキン)―鎮江(ちんこう)間の鉄道架設を建議したが、反対派の妨害で挫折(ざせつ)した。このころから康有為(こうゆうい)、梁啓超(りょうけいちょう)ら変法派と親交があった。1902年第二の祖国アメリカへ帰国。彼は欧米の制度を導入して中国を近代国家に変えようとしたが、科挙出身でないため冷遇され、洋務派官僚の顧問に終始した。
[阿川修三]
『百瀬弘訳注『西学東漸記――容閎自伝』(平凡社・東洋文庫)』