中国、清(しん)末民初の思想家、政治家。字(あざな)は長素。南海先生と号す。広東(カントン)省南海県出身。清仏戦争の敗北に大きな衝撃を受け、学問、思想を形成した、と自ら述べている。公羊(くよう)学を学んで『新学偽経考』『孔子改制考』『春秋董子(くんし)学』などを書き、儒教の経典を新たに解釈し直す可能性を切り開き、士大夫層の大きな反響をよんだ。日清戦争の敗北によっていっそう危機感を強め、同志を集めて政治改革の請願を行い、学会を組織し、士大夫層の啓蒙(けいもう)に努めた。進士の試験に合格したのち、光緒帝(こうしょてい)の知遇を得て、政体改革、富国強兵、人材登用、教育改革、孔子教設立などを上奏し、光緒帝はこれらの内容を上諭として発布し、改革を推進しようとした。これがいわゆる「戊戌(ぼじゅつ)の変法」である。しかしこの改革は、清朝内に圧倒的勢力をもつ西太后(せいたいこう)や保守派官僚の反対にあい、戊戌政変クーデターにより挫折(ざせつ)し、康は弟子の梁啓超(りょうけいちょう)とともに日本に亡命した。康有為の変法論は公羊学、大同思想を根幹とし、それに西ヨーロッパの進化論や政治思想、仏教などを結合した独自の思想をもち、その思想はその後『大同書』にほぼまとめられた。その後の康は孔子教設立を熱心に唱え、清末の革命運動や民国初年の新知識層の新文化運動などと対立した。
[伊東昭雄]
『野村浩一著『近代中国の政治と思想』(1964・筑摩書房)』▽『小野川秀美著『清末政治思想研究』(1969・みすず書房)』▽『竹内弘行著『康有為と近代大同思想の研究』(2008・汲古書院)』▽『村田雄二郎編『新編 原典中国近代思想史 第2巻――万国公法の時代』(2010・岩波書店)』▽『高田淳著『中国の近代と儒教』(紀伊國屋新書)』
中国,清末の学者,政治家。字は広厦(こうか),号は長素,のちに更生と称した。広東省南海県の生れで,門人から南海先生とよばれた。はじめ同郷の朱次琦について宋学を主とする漢宋兼採の学をまなび,のち陽明学や仏教に傾き,さらに当時漢訳された欧米の書籍を通じて西洋近代の政治・学術をも研究した。1888年(光緒14),順天郷試受験のため入京,時の皇帝に政治制度の改革を要求する上書をおこなって政界に波紋を投じた。2年後,広州に万木草堂を開いて,欧米の学問をも盛りこんだ新しい教育内容により人材の育成をはかり,また今文経書こそ孔子の微言大義を伝えたもので,古文経書は前漢末の劉歆(りゆうきん)の偽作だと論断した《新学偽経考》14巻(1891)を出版して保守派の弾圧を招いた。続いて孔子を創教者になぞらえた《孔子改制考》21巻(1898)を著した。
これよりさき,1895年,彼は会試受験のため入京したが,日本に敗れた清朝政府が過酷な講和条件を受諾しようとしているのに憤激し,1200名の挙人の署名を集めて和議拒否の上書(公車上書)を行った。これ以後,強学会など学会の名を借りた政治結社と雑誌出版により政治改革の必要を鼓吹した。97年,第5上書を行い,ロシア,日本に範をとって立憲君主制を国是とするよう求めたのが,光緒帝に認められ,翌年6月,〈明らかに国是を定める〉との上諭により〈変法〉が開始され,彼は光緒帝のブレーンとなって,いわゆる〈百日維新〉の改革プランをつぎつぎに立案した。しかし,その改革の方法があまりに急激だったために西太后ら保守派のクーデタにあい,わずか3ヵ月で鎮圧され,譚嗣同(たんしどう),康広仁(康有為の弟で大同訳書局を設立)ら6人は逮捕処刑された(戊戌六君子)。康有為は最初日本に亡命し,ついで世界各地を遊歴し,立憲君主政体の実現を期して保皇会の設立に努力した。その間,1902年,長年構想を練っていた《大同書》を完成した。国家,私有制,家族,男女差,人種差などを廃棄した後に完全に自由平等な大同世界が到来することを説いたユートピア論である。辛亥革命(1911)の後,帰国すると,孔教会を組織して孔子祀典の運動を行い,また宣統帝復辟運動にも加わったが,いずれも失敗し,1927年青島(チンタオ)で病死した。
執筆者:坂出 祥伸
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1858~1927
清末の学者,政治家。広東省南海県の人。初め朱子学を学んだが,道教,仏教,西学の書物を広く読み,1890年に公羊学(くようがく)に転じ,『新学偽経考』『孔子改制考』を著して政体変革の理論を立てた。95年進士に合格,この頃から国政の改革を唱えてしばしば上書し,また学会の組織,新聞の発行によって変法思想を鼓吹した。98年1月,光緒帝の師傅(しふ)翁同龢(おうどうわ)の推薦によって光緒帝に認められ,4月総理衙門(そうりがもん)の重職に抜擢されて内政改革の立案にあたったが,わずか100日で西太后(せいたいこう)らの保守派の弾圧にあい,香港に逃亡した。この後も南洋華僑(かきょう)の援助を受けて立憲運動を続けたが,清朝滅亡後,1917年には宣統帝の復辟(ふくへき)運動に参加した。
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…さらに龔自珍(きようじちん),魏源は通経致用を鼓吹して今文学を政治変革の理論とした。 最後に清代今文学を集大成したのは,康有為である。彼はまず劉逢禄や廖平(りようへい)(1852‐1932)の説を継承発展させて《新学偽経考》を著し,古文経書はすべて劉歆の偽作であり,孔子の〈微言大義〉は今文経にこそ記されていると論じ,ついで《孔子改制考》で,孔子を孔子教の開祖だとし,さらに《大同書》では,《礼記(らいき)》礼運篇の大同小康説と何休の張三世説とを結びつけた大同世界(ユートピア)への三段階歴史発展説を説いた。…
… その後,清代中ごろに至り,まず常州(江蘇省)の荘存与(1719‐88)が《春秋公羊伝》を顕彰し,ついで劉逢禄が何休の公羊学を重んじ《左氏伝》は劉歆の偽作だと指摘し,さらに龔自珍(きようじちん),魏源は,現実を遊離した考証学的学風を批判し,当面の崩壊しつつある王朝体制を救うために,何休の公羊学にもとづいて〈変〉の観念を強調した。しかし,公羊学を最も重んじて政治変革の理論的根拠としたのは,戊戌(ぼじゆつ)変法(1898)の指導者,康有為である。彼は公羊学の三世説を《礼記(らいき)》礼運篇の拠乱世,小康世,大同世に配当し,さらに西欧の社会進化論を結びつけて3段階の歴史発展を考え,立憲君主政体を実現することにより当面の拠乱世から小康世への展開をめざした。…
…中国,清末から民国初にかけて,孔子を尊崇して国家的宗教にしようとする運動のなかで用いられたことば。はじめ,清末の康有為が光緒帝にたてまつった上奏文(1898年6月)のなかで,全国の淫祀を廃絶して孔子を教主とする孔教を尊び,制度として教部,教会,孔子廟を設け,あらゆる郷・市に孔教会を,さらに全国教会の長として祭酒老師を置くことなどを要請したが,彼の指導する変法運動の失敗とともに,孔教問題は一時鳴りをひそめた。しかし辛亥革命(1911)で共和政体が成立すると,1913年の憲法草案で孔子の道が国民教育の根本とされたことから孔教問題が再燃した。…
…中国,清末の学者康有為の書。21巻。…
…だが,太平天国が命脈を終えるとそうした動きは中断,本格的批判運動は中華民国成立以後にもちこされた。 1913‐15年,陳煥章,康有為ら保守派の学者の音頭によって,孔子の教えを国教にしようとする孔教運動がおこり,袁世凱の帝制がさけばれるなかで,新文化運動が開始される。〈民主と科学〉を旗じるしとする雑誌《新青年》を中心に,中国の社会と文化を改革するためには,中国の封建体制の基礎となっている家族制度とそれを支えてきた孔子の教え(儒教)を否定せねばならぬ,という認識が進歩的知識人の共通のものとなった。…
…なかでも鄧石如は古碑によって篆隷を深く究め,また北碑を学んで,碑学の開山となった。阮元が〈南北書派論〉〈北碑南帖論〉を著して北碑を書の正統として以後,この説は包世臣の《芸舟双楫》さらに康有為の《広芸舟双楫》などによって補訂され,北派の理論がうちたてられた。これにともない,実作面でも北碑の素朴な書に美の発揚を求めたり,あるいは碑帖を兼習したり,さらに金文,石鼓文,甲骨文にも書作の材料を求める者が現れ,百花斉放の観を呈するにいたった。…
…碑学に対していう。清の康有為は,碑の拓本によって学ぶことを碑学と呼び,法帖を臨書することを帖学と呼んだ。二王は楷書,行書,草書を優美典雅な芸術に完成し,その書は六朝から唐にかけての貴族社会にたいへん好まれた。…
…中国,清末の思想家である康有為の著作。大同世界すなわちいっさいの差別や束縛から解放されたユートピア的世界とそれへ至る段階を描いた書。…
…筆者はこの(2)の意味での大家族を過度に重く見ることには反対であるが,ともかく儒教には墨子の兼愛に反対して近きより遠きへという愛の差等性を強調する思想があること,それがネポティズムの根拠となっていることを知っておくべきである。康有為や孫文が〈天下を公となす〉(《礼記》)を強調したのは大いに意味があったのである。
[人民主義の伝統]
たとえば,さきにわれわれは士大夫のモットーは〈己を修め人を治める〉ことであり,官僚には治者の意識のみあって人民のサーバントという意識はなかったといったが,実は,韓愈とつねに併称される唐の柳宗元は早くすでに次のごとくいいきっている。…
…乾隆・嘉慶の考証学の全盛期が終わるとともに,孔子を政治制度の改革論者と見る公羊学(くようがく)が現れて有力になった。この派からは清朝末期に康有為が出た。彼はその《大同書》において,人類社会の最後到達点は国家・階級・人種・男女・家族の区別がない大同の世であるとした。…
…時を経て下層階級に及び,最盛期を迎えた清代,満州人にも流行の兆しがみえて,康熙帝,乾隆帝が禁止令を出し,袁枚(えんばい),兪正燮(ゆせいしよう)ら学者が反対論を唱えたが,効を奏さなかった。その後太平天国も禁止し,清末に在華ミッション団体による廃止運動や,康有為が広東で発起した〈不裹足会〉の反対運動を機に,各地で〈天足(自然の足)会〉〈不纏足会〉が組織されたり,自ら纏足であった西太后が禁止令を発して徐々に衰えたが,なお徹底せず,民国時代にも遺風は残り,新中国成立後ようやく根絶をみた。【鈴木 健之】。…
…この説をさらに推し進めたのは包世臣で,《芸舟双楫(げいしゆうそうしゆう)》を著し,碑学の流行にますます拍車をかけた。清末になると康有為が出て,南帖よりも南碑に注目し,南北両朝の相互の関連性を説き,新しい体系を打ち立てた。日本においても,1880年に楊守敬が来日して,北碑の書風を紹介し,書道界に大きな影響を与えた。…
…かつて家庭教師をつとめた瑾妃・珍妃姉妹が光緒帝の寵愛を得たため帝に重用され,翰林院侍読学士に昇進。95年,立憲君主制をめざす康有為が強学会を設立した際,翁同龢(おうどうわ),張之洞らとともにそれを援助したため保守派の反感を買い,翌年,職を免ぜられ追放された。1899‐1900年,日本に滞し,内藤湖南と交渉をもった。…
…変法とは,伝統的な政治制度を全面的に改革することであり,具体的には,日本の明治維新を模範にして君主専制から立憲君主制に改めることである。この運動の理論的指導者は康有為である。1888年,会試受験のため北京に来た康有為は,清仏戦争敗北以来の欧米列強による蚕食の状況,国内の窮乏化とあいつぐ反乱,官僚の腐敗と無能を指摘し,〈成法を改め,下情を通じ,左右(官僚)の登用を慎重にする〉の3項目の改善を求める上書を提出した。…
…崔述(1740‐1816)の《考信録》は儒家の一部の経典に依拠して他の経書および諸子百家に史料批判を加えた。清末の政治改革家康有為は,崔述に一歩を進めて,儒家経典に記載する黄帝・尭舜・夏殷周三代の歴史は事実そのものでなく,孔子がその理想世界を述べるためのフィクションであったと主張した(《孔子改制考》)。元来中国人の歴史観は,《礼記》の大同思想にうかがわれるように,一種の下降史観であった。…
※「康有為」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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