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曾国藩 そうこくはんZeng Guo-fan; Tsêng Kuo-fan

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

曾国藩
そうこくはん
Zeng Guo-fan; Tsêng Kuo-fan

[生]嘉慶16(1811)
[没]同治11(1872)
中国,清末の政治家。湖南省湘郷県の人。字は伯涵。号は滌生 (てきせい) 。諡は文正。道光 18 (1838) 年の進士。翰林院の職を経て,同 27年礼部右侍郎となる。咸豊2 (52) 年末,母の喪に服するため帰郷。その在郷中に捜匪のための団練組織の命を受け,さらに太平天国軍に対抗するための湘軍を編成して太平天国軍討滅に活躍。その間,同 10年に両江総督となり,太平天国滅亡後は,功によって清朝では異例の侯爵に叙された。のち捻軍征討に失敗し,次第に湘軍を解散した。直隷総督,両江総督を歴任し,内閣大学士となる。洋務運動 (→洋務派 ) の指導者として著名。著作集として『曾文正公全集』 (174巻) がある。

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百科事典マイペディアの解説

曾国藩【そうこくはん】

中国,清末,咸豊・同治期の官僚,政治家。湖南省の人。1838年の進士。太平天国の乱に際し湘勇郷勇を編成して活躍,1864年南京を攻略し,太平軍を滅ぼした。功により両江・直隷総督から内閣大学士に進み,侯爵を受けた。
→関連項目王夫之呉汝綸左宗棠捻軍李鴻章李秀成

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世界大百科事典 第2版の解説

そうこくはん【曾国藩 Zēng Guó fān】

1811‐72
中国の政治家。幼名は子城,字は伯涵,号は滌生,諡(おくりな)は文正。湖南省湘郷県の人。祖父の代で富を蓄え,父から科挙に応じた。父は生員どまりだったが,曾国藩は道光18年(1838)に進士,1849年には礼部右侍郎まで昇った。順調に正統出世コースを歩んだ曾国藩はやがて10年をこえる太平天国との対抗関係において歴史に名をとどめることになる。53年1月,服喪帰郷中のところを団練(郷土自衛団)組織を命じられた曾国藩は,旧来のそれを湘軍(義勇軍,湘は湖南省の雅名)に改組した。

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世界大百科事典内の曾国藩の言及

【官営工業】より

…なかでも,同治年間(1862‐74)に開始された武器製造を主な目的とする国営工場が著名。太平天国を鎮圧した勢いを背景に,両江総督曾国藩,江蘇巡撫李鴻章,浙江巡撫左宗棠などの漢人官僚が台頭し,みずからの実力を蓄えるために,各地に軍需工場を設立した。1863年,曾国藩は安慶軍械所を設立し,西洋人技師を雇用せずに火器・小型汽船の製造を開始した。…

【漢奸】より

…祖国の利益を外国に売りわたす民族裏切者をいう中国語。清朝時代には,漢族の利益をふみにじって異民族満州王朝支配に奉仕する漢人がそれで,たとえば清朝のために太平天国を討伐した曾国藩は,体制派から同治中興の名臣とたたえられたのにたいし,革命派からは漢奸と非難された。民国時代には日本の侵略に奉仕したものが主で,南京に傀儡(かいらい)国民政府(1940‐45)を組織して日本軍の占領地域の支配を代行した汪兆銘をその筆頭とする。…

【郷勇】より

…それとともに呼称も潮勇,楚勇,川勇など徴募地名を冠する例が多くなったが,とくに大きな役割をはたしたのが,湘勇(湘は湖南省の簡称),淮勇(わいゆう)(淮は安徽省北部の別称)である。1853年(咸豊3)曾国藩は地主の子弟を将校とし,農村青年を兵(勇)として湘勇を編成し,61年,李鴻章はこれにならって淮勇を編成した。 いずれも師弟関係や血縁・地縁など私的結合を紐帯として組織されて曾国藩,李鴻章の私兵的性格が濃く,それぞれ湘軍,淮軍と通称された。…

【呉汝綸】より

…同治4年(1865)の進士。〈文章は天地の至精〉とのべた彼は若くから文章家として名をはせ,当時の大官僚曾国藩,李鴻章のブレーンとして活躍,曾・李両人の上奏文の多くを書いたといわれる。1902年(光緒28),現在の北京大学の前身である京師大学堂の総教習となり,教育視察のため日本を訪れ,日本の三省堂から《東游叢録》(1902年10月)を出版,中国の学校制度確立に影響をあたえた。…

【太平天国】より

…56年には,建都以来進行していた諸王間の隠微な権力闘争が,流血の大分裂として爆発し,東王がその部下約2万とともに北王韋昌輝に,ついで北王が天王に殺害され,衆望を担った翼王石達開が天王の圧迫に耐えかねて20万の大軍を率いて天京を離脱する悲劇を演じた(南王馮雲山と西王蕭朝貴は南京占領までに戦死)。これに乗じて曾国藩が儒教と伝統的秩序の擁護をかかげて,湖南の儒者・地主を中核に組織した義勇軍(湘(しよう)軍),ついで李鴻章が安徽で組織した淮(わい)軍が攻勢に転じ,太平軍は60年までに天京上流の従来の地盤を喪失した(図)。
[外国の干渉と敗北]
 第2次アヘン戦争と北京条約(1860)によって,清朝をその対華政策の支柱として再編することに成功したイギリス以下の列強は,初期の中立政策を放棄し,1860年以降,天京以東の江蘇・浙江省に新たな活路を求めて進出してきた太平軍に,上海,寧波などで武力攻撃を加え始めた。…

※「曾国藩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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