中国の政治家。幼名は子城,字は伯涵,号は滌生,諡(おくりな)は文正。湖南省湘郷県の人。祖父の代で富を蓄え,父から科挙に応じた。父は生員どまりだったが,曾国藩は道光18年(1838)に進士,1849年には礼部右侍郎まで昇った。順調に正統出世コースを歩んだ曾国藩はやがて10年をこえる太平天国との対抗関係において歴史に名をとどめることになる。53年1月,服喪帰郷中のところを団練(郷土自衛団)組織を命じられた曾国藩は,旧来のそれを湘軍(義勇軍,湘は湖南省の雅名)に改組した。湘軍は兵士の給与もよく,儒教イデオロギーにもとづく郷党的団結を核に,従来の正規軍よりはるかに戦闘力があり,太平軍と戦って互いに勝敗があった。清軍中における湘軍の重要性はだれの目にも明らかだったが,曾国藩が両江総督兼江南軍務欽差大臣の重権を授けられるのは,60年(咸豊10)8月,清朝がもう一つの敵=英仏連合軍の圧迫を強力にうけるにいたってのことである。
北京条約によって列強に屈服した清朝は外人傭兵隊の協力も得て太平天国に対し,64年(同治3)7月,天京を陥落させた。その最大の功労者は曾国藩だったから,彼は漢人として空前絶後の一等毅勇侯の爵位を授けられた。これは満州朝廷内部における漢人勢力の台頭にとって画期的なことがらだったが,太平軍に大敗を喫するたびに自殺を考えたほど小心なところのあった彼は,むしろ保身のために湘軍を解散し,軍権を手放した。また,彼は61年,安慶に兵器工場(安慶軍械所)を設立するなど洋務運動の先駆者でもあったが,軍権,洋務とも彼の輩下の李鴻章が主として継承するところとなった。曾国藩はなによりもまず,いわゆる同治中興の功臣として有名であるが,儒学の徒として名教の維持に努め,桐城派の流れをひく文章は一世をふうびして,その弟子郭崇燾(かくすうとう),薛福成(せつふくせい)らとともに湘郷派とも称される。《曾文正公全集》《曾文正公手書日記》等がある。子の曾紀沢,曾紀鴻は著名な外交官,数学者,娘の曾紀芬は女性の自訂年譜として有名な《崇徳老人八十自訂年譜》を残した。
執筆者:狭間 直樹
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1811~72
清末の政治家。湖南省湘郷(しょうきょう)県の人。1838年進士に合格,礼部右侍郎(れいぶうじろう)に昇進。52年母の喪に服するため帰省したとき,郷民を編成,訓練して太平天国を討伐すべき命を受け,在郷紳士多数の参加,協力を得て,湘軍(しょうぐん)と称する一種の義勇軍を編成した。彼はこの部隊を指揮して江西,安徽(あんき),浙江(せっこう),江蘇の太平軍をしだいに撲滅し,64年南京を攻略して太平天国を滅ぼした。官は両江総督(60~68年,70~72年),直隷総督(68~70年),内閣大学士(62~72年)に至り,64年には侯爵を授けられ文官としては空前の栄誉を受けた。彼は清末における軍人政治家,漢人官僚台頭のさきがけであり,また洋務運動の中心人物でもあった。
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…なかでも,同治年間(1862‐74)に開始された武器製造を主な目的とする国営工場が著名。太平天国を鎮圧した勢いを背景に,両江総督曾国藩,江蘇巡撫李鴻章,浙江巡撫左宗棠などの漢人官僚が台頭し,みずからの実力を蓄えるために,各地に軍需工場を設立した。1863年,曾国藩は安慶軍械所を設立し,西洋人技師を雇用せずに火器・小型汽船の製造を開始した。…
…祖国の利益を外国に売りわたす民族裏切者をいう中国語。清朝時代には,漢族の利益をふみにじって異民族満州王朝支配に奉仕する漢人がそれで,たとえば清朝のために太平天国を討伐した曾国藩は,体制派から同治中興の名臣とたたえられたのにたいし,革命派からは漢奸と非難された。民国時代には日本の侵略に奉仕したものが主で,南京に傀儡(かいらい)国民政府(1940‐45)を組織して日本軍の占領地域の支配を代行した汪兆銘をその筆頭とする。…
…それとともに呼称も潮勇,楚勇,川勇など徴募地名を冠する例が多くなったが,とくに大きな役割をはたしたのが,湘勇(湘は湖南省の簡称),淮勇(わいゆう)(淮は安徽省北部の別称)である。1853年(咸豊3)曾国藩は地主の子弟を将校とし,農村青年を兵(勇)として湘勇を編成し,61年,李鴻章はこれにならって淮勇を編成した。 いずれも師弟関係や血縁・地縁など私的結合を紐帯として組織されて曾国藩,李鴻章の私兵的性格が濃く,それぞれ湘軍,淮軍と通称された。…
…同治4年(1865)の進士。〈文章は天地の至精〉とのべた彼は若くから文章家として名をはせ,当時の大官僚曾国藩,李鴻章のブレーンとして活躍,曾・李両人の上奏文の多くを書いたといわれる。1902年(光緒28),現在の北京大学の前身である京師大学堂の総教習となり,教育視察のため日本を訪れ,日本の三省堂から《東游叢録》(1902年10月)を出版,中国の学校制度確立に影響をあたえた。…
…56年には,建都以来進行していた諸王間の隠微な権力闘争が,流血の大分裂として爆発し,東王がその部下約2万とともに北王韋昌輝に,ついで北王が天王に殺害され,衆望を担った翼王石達開が天王の圧迫に耐えかねて20万の大軍を率いて天京を離脱する悲劇を演じた(南王馮雲山と西王蕭朝貴は南京占領までに戦死)。これに乗じて曾国藩が儒教と伝統的秩序の擁護をかかげて,湖南の儒者・地主を中核に組織した義勇軍(湘(しよう)軍),ついで李鴻章が安徽で組織した淮(わい)軍が攻勢に転じ,太平軍は60年までに天京上流の従来の地盤を喪失した(図)。
[外国の干渉と敗北]
第2次アヘン戦争と北京条約(1860)によって,清朝をその対華政策の支柱として再編することに成功したイギリス以下の列強は,初期の中立政策を放棄し,1860年以降,天京以東の江蘇・浙江省に新たな活路を求めて進出してきた太平軍に,上海,寧波などで武力攻撃を加え始めた。…
※「曾国藩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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