富塚村(読み)とみつかむら

日本歴史地名大系 「富塚村」の解説

富塚村
とみつかむら

[現在地名]白井町富塚

折立おりたて村の西、手賀てが沼に注ぐ金山かなやま落の水源である支谷東岸に沿い、台地上に位置。鮮魚を運ぶ道筋にあたり、当地で行徳ぎようとく(現市川市)に至る道となま道(松戸道)が分岐する。慶長七年(一六〇二)八月三日の印西庄外郷白井郷之内富塚之村検地帳(川上家文書)では反別八町六反余(うち田五町六反余)、永不作は一町一反余。名請人一一(うち屋敷持五)。寛永四年(一六二七)当時は旗本高田・遠山両氏の相給(同文書)。寛文三年(一六六三)から伊吹氏が三五石を知行し(「諸家系譜」内閣文庫)、元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高七〇石、旗本遠山・伊吹両氏の相給。寛保二年(一七四二)から新畑や林畑が開発され、延享五年(一七四八)四五石余・一九町三反余が検地高入れされ、高一一五石となる。うち一二石(五町五反余)は持添新田(幕府領)

慶長一七年従来から立野であった地に手賀村(現沼南町)の者が人馬を引立て辻々に警固を置き、萱を刈取ったといい、事情を聞こうとした当村の者を打倒すという事件があり、しかも手賀村に里帰りしていた嫁をこの件にからめて帰そうとしないとして奉行所に訴えている。


富塚村
とみつかむら

[現在地名]浜松市富塚町・広沢ひろさわ一―三丁目・佐鳴台さなるだい五丁目など

佐鳴さなる湖の北に位置し、南は小藪こやぶ村、北は富新屋とみあらや村、西はかみ村。永禄一〇年(一五六七)九月一二日の今川氏真判物写(普済寺文書)によれば、浜松庄のうち「施餓鬼田富塚之内弐貫文地」が先規の寄進に従って普済ふさい寺に安堵されている。普済寺が所蔵する天正一〇年(一五八二)八月吉日付の棟札に「浜松庄富塚郷」とみえ、大檀越は遠州太守徳川家康であった。松平忠頼領郷村帳に飛塚村とみえ高五八一石余、田四七町五反余・畑二町四反余、うち川成八五石、ほかに普済寺領五石余・龍光りゆうこう庵領二石。権現屋ごんげんや(権現谷)四石は田四反余。


富塚村
とみづかむら

[現在地名]伊勢崎市富塚町

東は下道寺げどうじ村、北はよげ村、西は下福島しもふくじま村、南は八斗島やつたじま村。利根川(七分川)が南西を流れていた。享徳の乱の時には上杉・古河公方両勢力の境目として戦場になっている。享徳四年(一四五五)四月四日の小此木おこのぎ(現佐波郡境町)の合戦で、足利成氏方の岩松次郎(持国長子)が「冨塚在所以下所々」の敵上杉方を掃蕩し、小柴刑部左衛門尉を討取っている(同年四月五日「足利成氏書状写」正木文書)


富塚村
とみつかむら

[現在地名]加賀市富塚町

弓波ゆみなみ村の北に位置し、中世には京都北野社領富墓とみつか庄に含まれた。俗に「とびつか」とよび、延徳三年(一四九一)三月一〇日、越後下向の途次当地を通った冷泉為広の「越後下向日記」にも「トビツカ里、山吹アリ」とみえる。慶長三年(一五九八)八月五日の小早川秀秋宛行状(萩藩閥閲録)に、「富像村」のうち三三五石余を国司土佐守に領知せしめたとある「富像村」は当村のことであろう。正保郷帳によると高六三九石余、田方二四町六反余・畑方一八町三反余、物成高三〇〇石余、ほかに新田高一九一石余(物成高四九石余)、田方二四町六反余・畑方一八町三反余。


富塚村
とみつかむら

[現在地名]新発田市富塚町一―三丁目・新栄しんえい町三丁目・富塚

奥山新保おくやましんぼ村の西南弓越みこし村の西北に位置する。中世には加地かじ庄に含まれたらしく、弘安九年(一二八六)九月五日の関東下知状写(鶴岡神主家伝文書)に、「加地庄富塚条内記大夫新保并屋敷」を鎌倉鶴岡若宮神主伴時綱に与えると記されている。ただし、この文書は研究の余地がある。近世は新発田藩領で、慶長三年(一五九八)頃の御領内高付帳(新発田市史資料)に村名がみえ、高は八五〇石七斗余。


富塚村
とみつかむら

[現在地名]一宮市富塚とみつか

東は西浅井にしあざい村、北は大江おおえ通堤を挟んで江森えもり村・しま村に接する。慶長の備前検では二四九石余であったが正保の概高によって三六二石余と改められたのは宮田みやだ用水の創設による地味の改訂とみられる。全村藩士五人の入会給知であり、蔵入地は畑五反六畝余と草野の四畝余となっている。


富塚村
とみつかむら

[現在地名]美和町富塚

南は津島つしま街道を境に沖之島おきのしま(現七宝町)に接する。「寛文覚書」に戸数三四、人数一八〇とある。「徇行記」によれば、概高七〇〇石余のうち六〇三石余は藩士一一人の給知。田は二四町三反四畝余、畑は五町三反六畝余で、「里正書上ニ松葉庄トアリ(中略)沖島へ田畝ヲ少シ掟、又二ツ寺ノ畑ヲ承佃ス、大凡小百姓ハカリ也」とし、「五ノ坪」など条里制の遺構をうかがわせる地名を記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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