富士松加賀太夫(読み)ふじまつかがたゆう

改訂新版 世界大百科事典 「富士松加賀太夫」の意味・わかりやすい解説

富士松加賀太夫 (ふじまつかがたゆう)

新内節富士松派の演奏家。7世がもっとも有名で5世がそれに次ぐ。2~4世については未詳。(1)初世 初世富士松魯中の前名。(2)5世(1855-92・安政2-明治25) 初世富士松魯中の三男。江戸の生れ。初世富士松紫朝に学んで,富士太夫,歌賀太夫をへて1880年5世を襲名。《花井お梅》《高橋お伝》などの作品がある。(3)6世 2世富士松魯中の後名。(4)7世(1856-1930・安政3-昭和5) 本名小林文太郎。5世加賀太夫に師事,津賀太夫,富士太夫をへて1902年7世を襲名。無類の美声家で知られ,実弟吾妻路宮古太夫(のちの8世加賀太夫)の三味線コンビで,明治末年から大正期にかけて一世風靡(ふうび),いわゆる7代目加賀太夫としてもてはやされた。この7代目節は独特の奔放な語り口で,現在の新内節に大きな影響を与えている。(5)8世(1859-1934・安政6-昭和9) 7世の実弟。本名小林鎌吉。鶴賀秀太夫に学び,小秀太夫,直太夫をへて1913年には吾妻路宮古太夫と改め,兄の三味線を弾いた。兄の没後8世を襲名。(6)9世(1889-1971・明治22-昭和46) 8世の子,本名小林福太郎。曾根太夫を名のったが,8世の没後9世を襲名。(7)10世(1919(大正8)- )本名桜井延江。9世に学び,1960年加賀豊,73年富士松加賀を名のる。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

新撰 芸能人物事典 明治~平成 「富士松加賀太夫」の解説

富士松 加賀太夫(7代目)
フジマツ カガタユウ


職業
新内節太夫

肩書
新内節富士松派家元

本名
小林 文太郎

別名
前名=富士松 津賀太夫,富士松 富士太夫

生年月日
安政3年 2月29日

出生地
江戸(東京都)

経歴
5代目加賀太夫に師事、津賀太夫、富士太夫を経て、明治35年7代目を継いだ。無類の美声で、実弟の4代目吾妻路宮古太夫(のちの8代目加賀太夫)の三味線とコンビで、明治から大正にかけて一世を風靡した。俗に“7代目節”といわれ、現在の新内節に大きな影響を与えた。分派12、傍系3といわれ、没後縁辺のものが次々にその名を継いだ。

没年月日
昭和5年 10月4日 (1930年)

家族
弟=富士松 加賀太夫(8代目)

親族
甥=富士松 加賀太夫(9代目)


富士松 加賀太夫(5代目)
フジマツ カガタユウ


職業
新内節太夫・三味線方

肩書
新内節富士松派家元

本名
野中 富士松

別名
前名=富士松 富士太夫,富士松 歌賀太夫

生年月日
安政2年

出生地
江戸・浅草(東京都)

経歴
7歳で父と死別、父の高弟富士松紫朝に師事。富士太夫、歌賀太夫を経て、明治13年26歳で5代目加賀太夫を襲名。三味線の名手だったが、美声ではなかったため寄席などではあまり人気が出なかった。代表作に「花井お梅」「高橋お伝」などがある。25年神経衰弱のため自殺した。

没年月日
明治25年 12月10日 (1892年)

家族
父=富士松 魯中(初代),兄=富士松 魯中(2代目)


富士松 加賀太夫(8代目)
フジマツ カガタユウ


職業
新内節太夫・三味線方

肩書
新内節富士松派家元

本名
小林 鎌吉

別名
前名=鶴賀 小秀太夫,鶴賀 直太夫,吾妻路 宮古太夫(4代目)

生年月日
安政6年 2月29日

出生地
江戸(東京都)

経歴
7代目加賀太夫の実弟。鶴賀秀太夫に学び、鶴賀小秀太夫、鶴賀直太夫を経て、大正2年4代目吾妻路宮古太夫を名乗り、明治末期から大正にかけて兄の7代目加賀太夫の三味線をひく。昭和5年7代目の没後8代目加賀太夫を襲名。

没年月日
昭和9年 4月15日 (1934年)

家族
兄=富士松 加賀太夫(7代目),息子=富士松 加賀太夫(9代目)


富士松 加賀太夫(9代目)
フジマツ カガタユウ


職業
新内節太夫

肩書
新内節富士松派家元

本名
小林 豊太郎

別名
前名=富士松 曽根太夫

生年月日
明治22年 3月30日

出生地
東京・浜松町

経歴
昭和9年8代目加賀太夫の没後、9代目を継いだ。「東海道中膝栗毛」の「弥次喜多」など新内節の語りに優れていた。

没年月日
昭和46年 11月12日 (1971年)

家族
父=富士松 加賀太夫(8代目)

親族
伯父=富士松 加賀太夫(7代目)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

20世紀日本人名事典 「富士松加賀太夫」の解説

富士松 加賀太夫(7代目)
フジマツ カガタユウ

明治・大正期の新内節太夫 新内節富士松派家元。



生年
安政3年2月29日(1856年)

没年
昭和5(1930)年10月4日

出生地
江戸

本名
小林 文太郎

別名
前名=富士松 津賀太夫,富士松 富士太夫

経歴
5代目加賀太夫に師事、津賀太夫、富士太夫を経て、明治35年7代目を継いだ。無類の美声で、実弟の4代目吾妻路宮古太夫(のちの8代目加賀太夫)の三味線とコンビで、明治から大正にかけて一世を風靡した。俗に“7代目節”といわれ、現在の新内節に大きな影響を与えた。分派12、傍系3といわれ、没後縁辺のものが次々にその名を継いだ。


富士松 加賀太夫(8代目)
フジマツ カガタユウ

明治・大正期の新内節太夫・三味線方 新内節富士松派家元。



生年
安政6年2月29日(1859年)

没年
昭和9(1934)年4月15日

出生地
江戸

本名
小林 鎌吉

別名
前名=鶴賀 小秀太夫,鶴賀 直太夫,吾妻路 宮古太夫(4代目)

経歴
7代目加賀太夫の実弟。鶴賀秀太夫に学び、鶴賀小秀太夫、鶴賀直太夫を経て、大正2年4代目吾妻路宮古太夫を名のり、明治末期から大正にかけて兄の7代目加賀太夫の三味線をひく。昭和5年7代目の没後8代目加賀太夫を襲名。


富士松 加賀太夫(9代目)
フジマツ カガタユウ

大正・昭和期の新内節太夫 新内節富士松派家元。



生年
明治22(1889)年3月30日

没年
昭和46(1971)年11月12日

出生地
東京・浜松町

本名
小林 豊太郎

別名
前名=富士松 曽根太夫

経歴
昭和9年8代目加賀太夫の没後、9代目を継いだ。「東海道中膝栗毛」の「弥次喜多」など新内節の語りに優れていた。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「富士松加賀太夫」の解説

富士松加賀太夫(7代) ふじまつ-かがたゆう

1856-1930 明治-大正時代の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
安政3年2月29日生まれ。新内節。5代加賀太夫に師事し,津賀太夫,富士太夫をへて,明治35年7代を襲名。美声と奔放な語りで知られ,弟の鶴賀直太夫(のち4代吾妻路(あづまじ)宮古太夫,8代加賀太夫)の三味線とコンビをくんで一世を風靡(ふうび)した。昭和5年10月4日死去。75歳。江戸出身。本名は小林文太郎。

富士松加賀太夫(8代) ふじまつ-かがたゆう

1859-1934 明治-大正時代の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
安政6年2月28日生まれ。新内節。7代加賀太夫の弟。鶴賀秀太夫にまなび,小秀太夫,直太夫をへて,大正2年4代吾妻路(あづまじ)宮古太夫となった。兄とコンビで三味線をひき,昭和5年兄の没後8代加賀太夫を襲名。昭和9年4月19日死去。76歳。江戸出身。本名は小林鎌吉。

富士松加賀太夫(5代) ふじまつ-かがたゆう

1855-1892 明治時代の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
安政2年生まれ。初代富士松魯中(ろちゅう)の3男。新内節。初代富士松紫朝(しちょう)に師事し,富士太夫,歌賀太夫をへて,明治13年5代加賀太夫を襲名。「花井お梅」「高橋お伝」などを作曲した。明治25年12月10日死去。38歳。江戸出身。本名は野中富士松。

富士松加賀太夫(9代) ふじまつ-かがたゆう

1889-1971 大正-昭和時代の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
明治22年3月30日生まれ。8代富士松加賀太夫の子。新内節。曾根太夫をへて,昭和9年父の没後9代加賀太夫を襲名。昭和46年11月12日死去。82歳。東京出身。本名は小林豊太郎。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「富士松加賀太夫」の意味・わかりやすい解説

富士松加賀太夫【ふじまつかがたゆう】

新内節の太夫の芸名。10世まである。初世は富士松魯中の前名。5世〔1855-1892〕は初世の三男。《花井お梅》《高橋お伝》などを作曲。7世〔1856-1930〕は本名小林文太郎。5世の門弟。美声家で名人とうたわれ,明治末期から大正期にかけて一世を風靡(ふうび)した。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「富士松加賀太夫」の意味・わかりやすい解説

富士松加賀太夫(5世)
ふじまつかがたゆう[ごせい]

[生]安政2(1855)
[没]1892
新内節の太夫。富士松魯中の3男。1世富士松紫朝に師事した。 26歳で加賀太夫を襲名して,富士松派5世の家元となる。作品には『花井お梅』『高橋お伝』などがある。

富士松加賀太夫(7世)
ふじまつかがたゆう[ななせい]

[生]安政3(1856)
[没]1930
新内節の太夫。本名小林文太郎。5世加賀太夫の弟子。津賀太夫,富士太夫を経て,1902年加賀太夫を継ぎ,富士松派7世家元になる。その美声は明治末期から大正にかけて一世を風靡し,常磐津林中,5世清元延寿太夫とともに名人と称せられた。

富士松加賀太夫(9世)
ふじまつかがたゆう[きゅうせい]

[生]1889.3.30.
[没]1971.11.12.
新内節の太夫。8世富士松加賀太夫の子。本名小林豊太郎。前名は曾根太夫。9世の没後は,富士松加賀 (本名桜井延江。 1919.10.8.~ ) が 10世家元を継いでいる。

富士松加賀太夫(8世)
ふじまつかがたゆう[はっせい]

[生]安政6(1859)
[没]1934.4.15.
新内節の太夫。7世富士松加賀太夫の実弟。本名小林鎌吉。鶴賀秀太夫に師事,小秀太夫,直太夫を経て,前名吾妻路宮古太夫。7世の没後に8世を襲名した。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「富士松加賀太夫」の解説

富士松加賀太夫(5代)

没年:明治25.12.10(1892)
生年:安政2(1855)
幕末明治期の新内節の家元。初代富士松魯中の3男,本名野中富士松。初代富士松紫朝に教育された。富士太夫,歌賀太夫を経て,明治13(1880)年加賀太夫を襲名。作品に「高橋お伝」,「花井お梅」がある。

(根岸正海)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

367日誕生日大事典 「富士松加賀太夫」の解説

富士松 加賀太夫(7代目) (ふじまつ かがたゆう)

生年月日:1856年2月29日
明治時代;大正時代の新内節の家元
1930年没

富士松 加賀太夫(8代目) (ふじまつ かがたゆう)

生年月日:1859年2月29日
明治時代;大正時代の新内節の家元
1934年没

富士松 加賀太夫(9代目) (ふじまつ かがたゆう)

生年月日:1889年3月30日
大正時代;昭和時代の浄瑠璃太夫
1971年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の富士松加賀太夫の言及

【新内節】より

…これを段物(だんもの)という。 幕末になって鶴賀加賀八太夫が富士松家を再興し,富士松加賀太夫(のち富士松魯中)を名のり,安政(1854‐60)のころに品よく渋い新作を作り,富士松浄瑠璃と称した。なお彼には滑稽(こつけい)な(チャリ物という)《弥次喜多》3段もある。…

【花井お梅】より

…1887年6月9日,東京日本橋浜町の料亭酔月楼の女主人花井お梅が,番頭の峰吉を刺し殺した事件は当時評判になり,《東京絵入新聞》は虚実とりまぜた読物〈花井於梅酔月奇聞〉を連載した。その一部を5世富士松加賀太夫が脚色し,88年3月に作曲したもの。明治期の作品らしく当時の風俗が巧みにとり入れられており,〈うきふし繁き……〉や〈向うへチラチラ小提灯……〉などはよく知られた曲節で,現在も流行している。…

【富士松魯中】より

…1829年(文政12)ごろ写し絵入り新内節を語り,翌年,浅草の船宿に妻とともに夫婦養子に入ったが,38年(天保9)ごろ3代目家元鶴賀鶴吉の娘ひでとの恋愛問題などで破門された。このため都路加賀太夫を名のったが,天保末期には中絶していた富士松家を再興し,富士松加賀太夫魯中と改名,のち俳名の魯中のみを称した。しかし鶴賀より従来の新内節を語ることを禁じられたため,福岡・久留米の富士松紫朝をはじめ一門の高弟の協力を得て新作に専念し,《真夢(まさゆめ)》《弥次喜多(三段)》《高野山(こうやさん)》など60曲ほどの作品を残した。…

【柳家紫朝】より

…今日の富士松派ではこの人を2世富士松紫朝とする。初世ゆずりの渋い芸は,陽性の7世富士松加賀太夫と対抗し,別の人気を博して名人といわれた。富士松紫朝【竹内 道敬】。…

※「富士松加賀太夫」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android