富士松紫朝(読み)ふじまつしちょう

改訂新版 世界大百科事典 「富士松紫朝」の意味・わかりやすい解説

富士松紫朝 (ふじまつしちょう)

新内節富士松派の演奏家。(1)初世(1827-1902・文政10-明治35) 本名佐藤竹次郎。福岡・久留米の人。盲目で,幼少より地歌・箏曲を学ぶ。1846年(弘化3)江戸に出て初世富士松魯中入門,その新作運動に協力,とくに義太夫節種の新内化にはみずから義太夫節を学んで助けたという。幕末には寄席に出て弾き語りをし,渋く品のいい芸は名人といわれた。晩年は久留米に帰り,俗に〈久留米の紫朝〉といわれる。弟子に5世富士松加賀太夫柳家紫朝,名古屋の富士松春太夫(1877-1941)らがある。(2)2世(1860-1943・万延1-昭和18) 本名古賀城武。福岡・久留米の人。初めは光瀬都(みつせのいち),林検校らに九州系の地歌・箏曲を学んだが,のち初世に入門,紫好斎をへて初世の没後2世を襲名。しかし今日の富士松派では柳家紫朝を2世とし,この人は代数に数えない。(3)3世(1897-1980・明治30-昭和55) 本名戸田正義。1936年富士松佐交から3世を襲名,のち紫朝大掾を名のった。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

新撰 芸能人物事典 明治~平成 「富士松紫朝」の解説

富士松 紫朝(初代)
フジマツ シチョウ


職業
新内節太夫(富士松派)

本名
佐藤 竹次郎

別名
後名=富士松 紫翁

生年月日
文政9年 6月19日

出生地
筑前国久留米(福岡県)

経歴
盲人。幼少より地歌・箏曲を学ぶ。弘化3年江戸に出て、初代富士松魯中に弟子入りし、紫朝となる。安政年間から明治初年にかけ寄席の新内語りとして人気を得た。20年代まで柳派の寄席に出演していたが、26年門人の紫好斎に名跡を譲って紫翁と改名し、久留米に引退した。渋くて品のいい語りで名人といわれ、俗に“久留米紫朝”と称される。

没年月日
明治35年 3月1日 (1902年)


富士松 紫朝(3代目)
フジマツ シチョウ


職業
新内節太夫(富士松派)

本名
戸田 正義

別名
前名=富士松 佐交,後名=富士松 紫朝大椽

生年月日
明治30年 5月10日

出生地
神奈川県 横浜市

経歴
昭和11年富士松佐交から3代目紫朝を襲名、のち紫朝大椽を名乗った。

没年月日
昭和55年 2月18日 (1980年)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

20世紀日本人名事典 「富士松紫朝」の解説

富士松 紫朝(3代目)
フジマツ シチョウ

昭和期の新内節太夫(富士松派)



生年
明治30(1897)年5月10日

没年
昭和55(1980)年2月18日

出生地
神奈川県横浜市

本名
戸田 正義

別名
前名=富士松 佐交,後名=富士松 紫朝大椽

経歴
昭和11年富士松佐交から3代目紫朝を襲名、のち紫朝大椽を名のった。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「富士松紫朝」の解説

富士松紫朝(初代) ふじまつ-しちょう

1826-1902 江戸後期-明治時代の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
文政9年6月19日生まれ。新内節。幼時に失明し地歌,箏曲(そうきょく)をまなぶ。弘化(こうか)3年江戸にでて初代富士松魯中(ろちゅう)に入門,寄席での弾き語りはしぶく上品な芸で名人といわれた。なお,2代紫朝をついだ古賀城武(じょうたけ)は富士松派では代数にかぞえない。明治35年3月1日死去。77歳。筑後(ちくご)(福岡県)出身。本名は佐藤竹次郎。

富士松紫朝(2代) ふじまつ-しちょう

1873-1918 明治-大正時代の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
明治6年9月9日生まれ。新内節。盲人で,鶴賀花太夫の門にはいり,のち初代富士松紫朝にまなび,紫玉(しぎょく),のち佐交(左交)と名のる。明治29年上京して色物の柳(やなぎ)派にくわわり,柳家柴朝(しちょう)の名で寄席に出演。後年柴の字を紫にかえた。大正7年5月12日死去。46歳。富山県出身。本名は尾山亀次郎。初名は鶴賀花蝶。

富士松紫朝(3代) ふじまつ-しちょう

1897-1980 昭和時代の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
明治30年5月10日生まれ。新内節。昭和11年3代紫朝を襲名。のち紫朝大掾(だいじょう)を名のった。昭和55年2月18日死去。82歳。神奈川県出身。本名は戸田正義。前名は富士松佐交。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

朝日日本歴史人物事典 「富士松紫朝」の解説

富士松紫朝(初代)

没年:明治35.3.1(1902)
生年:文政10(1827)
江戸後期から明治期の新内節の太夫。久留米生まれ。目が不自由で幼少から箏曲を学び,弘化3(1846)年初代富士松魯中の門に入り,新作運動に力を貸した。幕末には寄席に出て弾き語りをしたが,その上品な芸風で名人と呼ばれた。

(根岸正海)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の富士松紫朝の言及

【新内節】より

…明治の初期,魯中の子の5世加賀太夫が《花井お梅》《高橋お伝》などの作品を発表した。彼を育成したのは久留米の富士松紫朝(しちよう)という盲目の名人で,三味線の名手と伝える。同じく盲目の名人の柳家紫朝(しちよう)も鶴賀派の出であるがこの人に学んだ。…

【柳家紫朝】より

…鶴賀花太夫の弟子で初名鶴賀花蝶。のち久留米の初世富士松紫朝に学び富士松紫玉,のち佐交。1899年旧師から異議が出て富士松姓をやめ,鶴賀に籍を残したまま色物の柳派に加わり,柳家柴朝を名のって寄席に出演した。…

※「富士松紫朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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