常磐津林中(読み)トキワズリンチュウ

デジタル大辞泉 「常磐津林中」の意味・読み・例文・類語

ときわず‐りんちゅう〔ときはづ‐〕【常磐津林中】

[1843~1906]常磐津節太夫江戸の生まれ。名人とうたわれた。

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精選版 日本国語大辞典 「常磐津林中」の意味・読み・例文・類語

ときわず‐りんちゅう【常磐津林中】

  1. 初世常磐津節の太夫。本名山蔭忠助。盛岡藩士の子として江戸に生まれる。四世文字太夫(豊後大掾)の門人。常磐津を隆盛に導いた明治期の名人。天保一三~明治三九年(一八四二‐一九〇六

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新撰 芸能人物事典 明治~平成 「常磐津林中」の解説

常磐津 林中(初代)
トキワヅ リンチュウ


職業
常磐津節太夫

本名
山蔭 忠助

旧名・旧姓
石川

別名
前名=常磐津 松尾太夫(2代目)(トキワズ マツオダユウ),常磐津 小文字太夫(7代目)(トキワズ コモジダユウ),別名=宮古路 国太夫半中

生年月日
天保13年 12月

出生地
江戸

出身地
睦奥国盛岡(岩手県)

経歴
常磐津和登太夫に入門し、嘉永3年小和登太夫となる。師の没後、常磐津松尾太夫門下で文久2年2代目松尾太夫を襲名。明治12年家元6代目小文字太夫未亡人養子となり7代目小文字太夫となるが、19年離縁されて林中と改名する。さらに宮古路国太夫半中と名乗り、岸沢仲助と組み地方巡業に出るが失敗、盛岡に引きこもった。29年、9代目市川団十郎・尾上菊五郎が「関の扉(と)」上演に際し、請われて上京。再び林中を名乗り、団十郎の地方をつとめ人気を博す。豊かな声量と新しい演出で人気を博し“名人林中”と呼ばれて邦楽に大きな影響を残したほか、初のレコード吹き込みも行った。

没年月日
明治39年 5月6日 (1906年)


常磐津 林中(2代目)
トキワヅ リンチュウ


職業
常磐津節太夫

本名
石田 清太郎

別名
前名=常磐津 芝喜作,常磐津 文字八(2代目)

生年月日
明治11年

出生地
東京

経歴
初代林中に師事し、明治24年芝喜作、32年2代目文字八を名乗る。初め、三味線方だったが、41年太夫に転向し2代目林中を継ぐ。

没年月日
大正8年 4月26日 (1919年)

親族
甥=常磐津 林中(3代目)


常磐津 林中(3代目)
トキワヅ リンチュウ


職業
常磐津節太夫

本名
石田 信一

別名
前名=常磐津 文字八(3代目)

生年月日
明治27年 10月1日

出生地
東京

経歴
2代目林中の甥。明治43年3代目文字八となり、2代目林中の三味線方をつとめる。昭和37年太夫に転向し3代目林中を継ぐ。

没年月日
昭和47年 9月4日 (1972年)

親族
おじ=常磐津 林中(2代目)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「常磐津林中」の意味・わかりやすい解説

常磐津林中
ときわずりんちゅう
(1842―1906)

常磐津節の太夫(たゆう)で、近世の名人とうたわれた。本名山蔭忠助。盛岡藩士石川清蔵の子で、三浦藩士山蔭定次郎の養子となる。初め和登菊(わとぎく)のち、その師和登太夫につき小和登太夫となる。さらに4世文字太夫、初世松尾太夫に師事し、松尾太夫死去後1863年(文久3)2世松尾太夫となる。79年(明治12)、11世守田勘弥(かんや)の世話で佐六文中(さろくぶんちゅう)(4世文字太夫の庶子で6世小文字太夫の通称)の未亡人の養子となり、家元7世小文字太夫となるが、86年に離縁になったので林中と改名。まもなく宮古路(みやこじ)国太夫半中(はんちゅう)を名のり別派を立て、地方巡業を試みたが失敗、郷里の盛岡に引きこもった。しかし1896年、9世市川団十郎に招かれて上京、翌年2月の歌舞伎(かぶき)座で林中の旧名に復して出演、批評家や他流の演奏家にも多大の感銘を与えた。その優れた芸風は当時吹き込みのレコードでしのぶことができる。

 林中の名は3世まであり、2世(?―1919)は、初世の門弟で三味線方の2世文字八が1908年(明治41)に2世を継いだ。3世(1894―1972)は2世の甥(おい)の3世文字八で、2世の立(たて)三味線であったが、1962年(昭和37)3世を襲名、弾き語りを得意とした。

[林喜代弘・守谷幸則]

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改訂新版 世界大百科事典 「常磐津林中」の意味・わかりやすい解説

常磐津林中 (ときわづりんちゅう)
生没年:1842-1906(天保13-明治39)

常磐津節の太夫。本名山蔭忠助。盛岡藩馬廻役石川清蔵の子。江戸芝桜田久保町に生まれ,山蔭定次郎(三浦藩士とも公家お髪上げともいう)の養子となる。常磐津和登太夫に師事,12歳で小和登太夫を名のる。のち初世豊後大掾(4世常磐津文字太夫)に入門,その没後は初世常磐津松尾太夫に師事,2世松尾太夫を襲名。1879年7月守田勘弥の仲介で家元(佐六未亡人)の養子となり,7世常磐津小文字太夫を相続。82年に岸沢派との和解に成功。のち養母と不和になり,86年離縁,林中と改名。3世仲助と組み地方巡業をするが失敗,宮古路国太夫と改めて盛岡にこもる。96年9世市川団十郎に懇望されて上京,再度林中を名のり,翌年2月歌舞伎座で《関の扉(せきのと)》を語り好評を博す。以後2世常磐津文字兵衛を三味線方にして活躍,豊かな声量,息づきの巧妙さ,近代的解釈に基づく演出等で人気を得,近代の常磐津節隆盛に貢献。2世は初世門弟常磐津柴喜作(しきさく)が,3世は2世文字兵衛門弟文字八が一時襲名した。
執筆者:

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朝日日本歴史人物事典 「常磐津林中」の解説

常磐津林中(初代)

没年:明治39.5.6(1906)
生年:天保13.12(1842)
幕末明治期の常磐津節の太夫。盛岡藩士石川清蔵の子で名は忠助。三浦藩士山蔭定次郎の養子となる。常磐津和登太夫に学び,嘉永6(1853)年小和登太夫。のち4代目常磐津文字太夫,初代常磐津松尾太夫に学ぶ。文久2(1862)年2代目松尾太夫となる。明治12(1879)年7月,12代目守田勘弥の世話で前家元6代目小文字太夫の亡きあと,その妻常子の養子となり,7代目小文字太夫となったが,19年家元から離縁となり,林中と改名。この間,15年常磐津・岸沢両派の和解を成立させたが,この和解は林中の存命中のみに終わった。さらに,宮古路国太夫半中と名乗り,岸沢仲助と地方巡業を試みたが失敗,郷里盛岡に引きこもった。29年9代目市川団十郎に招かれて上京,翌年2月林中の名で「関の扉」を語って評判となった。声量があり,振り切りがきれいで無駄節がなく,新しい演出が加えられていたので,新しい時代によく受け入れられた。また,常磐津節では日本で最初のレコード吹き込みをした。<参考文献>小野田翠雨「常磐津林中」(『文芸倶楽部』6巻15号),常磐津文字兵衛「名人林中」(『演劇界』1946年7月号),鈴木彦次郎『常磐津林中』

(安田文吉)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

20世紀日本人名事典 「常磐津林中」の解説

常磐津 林中(2代目)
トキワヅ リンチュウ

明治・大正期の常磐津節太夫



生年
明治11(1878)年

没年
大正8(1919)年4月26日

出生地
東京

本名
石田 清太郎

別名
前名=常磐津 芝喜作,常盤津 文字八(2代目)

経歴
初代林中に師事し、明治24年芝喜作、32年2代目文字八を名のる。初め、三味線方だったが、41年太夫に転向し2代目林中を継ぐ。


常磐津 林中(3代目)
トキワヅ リンチュウ

明治〜昭和期の常磐津節太夫



生年
明治27(1894)年10月1日

没年
昭和47(1972)年9月4日

出生地
東京

本名
石田 信一

別名
前名=常磐津 文字八(3代目)

経歴
2代目林中の甥。明治43年3代目文字八となり、2代目林中の三味線方をつとめる。昭和37年太夫に転向し3代目林中を継ぐ。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

百科事典マイペディア 「常磐津林中」の意味・わかりやすい解説

常磐津林中【ときわづりんちゅう】

常磐津節演奏家の芸名。3世まである。初世〔1842-1906〕は本名山蔭忠助。盛岡藩士の子として江戸に生まれ,幼少からこの道に入り,2世松尾太夫を相続したが,のち林中と改名。9世市川團十郎の要望で《関の扉(せきのと)》を語って以来,名人とされた。
→関連項目常磐津松尾太夫

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「常磐津林中」の解説

常磐津林中(初代) ときわず-りんちゅう

1843*-1906 幕末-明治時代の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
天保(てんぽう)13年12月生まれ。明治12年常磐津節の家元(6代小文字太夫)の未亡人の養子になり,7代小文字太夫を名のるが,同年離縁となって林中と改名。郷里の盛岡にこもっていたが,9代市川団十郎の招きで30年歌舞伎座に出演,大好評をえた。明治39年5月6日死去。65歳。本名は山蔭忠助。本姓は石川。前名は松尾太夫(2代)。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「常磐津林中」の意味・わかりやすい解説

常磐津林中
ときわずりんちゅう

[生]天保13(1842).12. 江戸
[没]1906.5.6. 東京
幕末~明治の常磐津節の太夫。南部藩士の子。本名山蔭忠助。1世松尾太夫に師事。文久2 (1862) 年2世松尾太夫襲名。 1879年家元未亡人の養子となり,小文字太夫を名のったが,86年に不和離縁。芸名を返上して林中と名のった。いったん郷里盛岡に引退したが,96年に9世市川団十郎の要望で中央芸界に復帰,美声と名人芸で人気をさらい,常磐津節の隆盛をもたらした。

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世界大百科事典(旧版)内の常磐津林中の言及

【常磐津節】より

…通説では1857年(安政4)に大当りをした《三世相錦繡文章(さんぜそうにしきぶんしよう)》の功名争いをその原因とするが,《三世相》上演後2年は同席しているのでそれだけではなく,岸沢古式部に独立の意志があり,それがたまたま文字太夫との紛争をきっかけとして表面化したと推測される。分裂後文字太夫は2世佐々木市蔵を,小文字太夫は初世常磐津文字兵衛を三味線方とし,岸沢古式部は太夫となり6世式佐を三味線方としたが,82年7世小文字太夫(常磐津林中)により和解が成立,その記念として《釣女》《松島》が作られている。ところが,1906年林中が死没すると両派は再度対立,7世岸沢式佐・仲助兄弟は〈新派〉を樹立した。…

※「常磐津林中」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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