富永村(読み)とみながむら

日本歴史地名大系 「富永村」の解説

富永村
とみながむら

[現在地名]吉田町富永

東は大保だいぼ新田村桜町さくらまち(現燕市)に耕地を接する。天正五年(一五七七)の三条領闕所帳(市川浩一郎氏蔵)に「河田惣兵衛分 吉田之内富なか村」とあり、合計三一貫八一文、このほかに「中使面」として二二四束苅、「吉祥寺」として四二〇苅などが記される。慶長二年(一五九七)検地帳(栗林長三郎氏蔵)によれば、村高は本符三〇石二斗四升五合・見出三一石二斗三升で一〇人の給人の相給地で、給人ごとに中使が設定されている(うち一人は二給人を兼帯)。中使九人の名請地は村内に一筆もなく、数ヵ村あるいは数十ヵ村に及ぶ給人知行地の中使を務めている被官土豪名主層と考えられる。

富永村
とみながむら

[現在地名]岡崎市富永町

矢作川右岸の低い自然堤防と、かつて西端を流れた支流沿いの肥沃な低地よりなる。北から東は東本郷ひがしほんごう村・西本郷村、南は通称鎌倉街道の通った桑子くわご村・新堀にいぼり村、西は碧海へきかい台地上の高木たかぎ(現安城市)に接する。

古代「和名抄」所載谷部はせべ郷の南隅とみられている。中世は平田ひらた庄の北隅という。新堀との境字大庭おおばにある合殿社前庭まえば天神社・院庭いんば天神社は天照大神・豊受大神を奉斎すると伝え、「神鳳鈔」所載の富永とみなが御薗をこの地に比定する説もある。

富永村
とみながむら

[現在地名]大山田村富永

上阿波かみあわ村の西、阿波川流域の俗称阿波谷のほぼ中央部、南に阿波川が流れ、伊賀街道が東西に通る。嘉禄元年(一二二五)一一月五日の官宣旨案(東大寺文書)富永庄とあり、新大仏しんだいぶつ寺所在の村として著名。

寛文三年(一六六三)古検を改めている。本高四四七・〇二石、平高六六八・五二五石、寛延(一七四八―五一)頃の戸数は八九、人口三四六、牛一二。社寺は天神・愛宕あたご東光とうこう寺・ひがし坊とある(宗国史)。天神はみやたにに菅原道真を祀り、愛宕社も宮ノ谷にあり、ともに慶長年間(一五九六―一六一五)創建と伝えられるが、そのほかの山の神数社とともに明治四一年(一九〇八)上阿波のあし神社に合祀

富永村
とみながむら

[現在地名]安岐町富清とみきよ

両子ふたご山より放射する山稜に東西を挟まれた峡谷の村で、南流する両子川の右岸山麓に集落が点在する。北は両子村、南は恒清つねきよ村。小倉藩元和人畜改帳に村名がみえ、高二五七石余、家数七一、うち百姓一五、庭屋・へ屋五四、人数一六一、うち百姓一五・名子七、牛一六。正保郷帳では武蔵むさし郷に属し、田方一五〇石余・畑方四四石余で、茅山有・柴山有・新田有と注記される。天保郷帳では高四四五石余。宮畑みやばたに鎮座する宮畑社の祭神は大年神・菅原大明神・加藤清正である。菅原大明神は長享二年(一四八八)三浦梅園(安貞)の先祖が京都より勧請したという。

富永村
とみながむら

[現在地名]飯高町富永

粟野あわの村の西にあり、村域の南部から東部にかけて櫛田くしだ川が蛇行しその左岸に和歌山街道が通る。中世後期に当地は北畠氏四家老の一人鳥屋尾氏の勢力下にあった。天正一〇年(一五八二)の北畠氏家臣帳である伊勢国司北畠家秘録(「美杉村史」所収)に「四家老嶋屋尾岩見守」とある。寛永一八年(一六四一)検地帳(徳川林政史蔵)に「富永村」と記されている。

富永村
とみながむら

[現在地名]稲武町富永とみなが

小田木おだぎ村と黒田くろだ村の集落境の水分みずわかれ峠を越えて北側にあたる村。ともに加茂郡に属した。幕末の戸口は一〇戸・五三人で、村高九〇石余(北設楽郡史)。村域内所畑ところはた遺跡からは縄文中期の半割竹管文の土器をはじめ、前期と考えられる鞍船型土器、晩期の条痕文土器少量がみられた。

富永村
とみながむら

[現在地名]中川区富田とみだ町富永

村の東を戸田とだ川が流れ、北は戸田村に接する。寛文一一年(一六七一)の家数一三四、人数七四三(寛文覚書)。「徇行記」によれば、概高七〇〇石余は志水甲斐守の一円給知。田は三五町四反余、畑は五町七反余。「此村高ニ準シテハ戸口多ク、耕田ツクリ足ラサルニヨリ、戸田村・福田茶屋両新田ノ田畝ヲ承佃ス、高持ノ者少クシテ無高者多キ故ニ承佃ヲ第一トセリ」とあり、槙垣で海風をさえぎっていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報