黒滝村
くろたきむら
[現在地名]土山町黒滝
黒川村の東方にあり、田村川最奥に立地する山村。東は鈴鹿山脈に続き、伊勢国との国境をなす。天正一九年(一五九一)四月の徳川家康知行目録写(大谷文書)に黒滝一三一石余とみえ、家康の在京賄料に充てられた。なお翌二〇年八月の検地帳写の断簡が山中文書に残る。慶長五年(一六〇〇)幕府領、元禄一一年(一六九八)山上藩領となる。寛永石高帳では高九〇石余で、慶安二年書上による内訳は田三四石余・畑屋敷四二石余・永荒川欠一四石余。
黒滝村
くろたきむら
[現在地名]南国市黒滝
黒滝川(穴内川上流)沿いの山村で、西は桑ノ川村、北西は中ノ川村。「土佐州郡志」は「属本山郷、去高知東北四里、東限穴内村、西南距川、北限中之川村、東西二拾町南北三十町、(中略)其土赤黒」と記す。江戸時代後期には上倉郷の一村となる。
天正一六年(一五八八)の本山分黒滝谷地検帳によれば、検地面積四町二反余、うち切畑二町五反余、屋敷一町六反余、畠二七代である。ただし検地面積のうち七反は荒地。屋敷数一一、うち居屋敷八。耕地はわずかの扣地を除いて給地と作職地となっている。切畑では稗・芋がつくられている。
元禄地払帳によると総地高は三八石余、うち本田高二〇石余、新田高一八石余、本田のうち蔵入地一六石余、残りは馬詰与三右衛門の知行、新田のうち貢物地は一斗九升、残りは衣斐某の役知、和田左五衛門の領知。
黒滝村
くろたきむら
[現在地名]柳津町猪倉野
銀山川が村中を北流し、南上流は猪鼻村。周囲は山に囲まれ、山越えで北東は小柳津村、西は柳津新村。村北の滝の岩が時々黒くみえるので村名としたという。柳津村から軽井沢銀山への道が通る。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高五石余。寛文五年(一六六五)の「稲河領牛沢組郷村万改帳」では本田高一五石余・新田高三斗余、免三ツ七分八厘余、家数六、竈八、男一六・女一五、馬二で、小物成に綿役・糠藁・足前・山役・松葉サライがあり、ほかに役漆木二一九本余・役蝋四貫六一一匁がある。
黒滝村
くろたきむら
面積:四七・八二平方キロ
郡の北部、ほぼ中央を占める。北は吉野町、西は下市町、南は天川村・西吉野村、東は川上村に接する。吉野町境には青根ヶ峯(八五七・九メートル)、天川村境には笠木峠・扇形山(一〇五二・八メートル)・大天井ヶ岳(一四三八・七メートル)、川上村境には四寸岩山(一二三五・六メートル)があり、大天井ヶ岳・四寸岩山は大峰山脈の主脈を形成する。
黒滝村
くろたきむら
[現在地名]柏崎市黒滝
南は宮窪村、北は新道村・貝淵村。近世は初め高田藩領、元和二年(一六一六)から同四年まで長峰城主牧野忠成領。正保国絵図に高二五七石余。天和三年(一六八三)の越後中将御領覚では高三二五石六斗余。同年の検地帳(柏崎市立図書館蔵)では田一九町八反余・畑屋敷七町一反余、屋敷四一筆。山が六三町一反余ある。正徳元年(一七一一)の村明細帳(大橋政秀氏蔵)では家数五七、男一七二・女一三三、馬一五。農業のほか鵜川での鮭・鱒・鮎・八目鰻の漁獲を許可された者もいる。
黒滝村
くろたきむら
[現在地名]相馬村黒滝
東は湯口村、南と西は五所村に接し、田地が広がる。北は岩木川が東流する。
貞享元年(一六八四)の郷村帳に平賀庄の新田として村名がみえ、村高は一二〇〇・五石と非常に高いが、理由は不明。同四年の検地帳によれば村高は三〇一・六四六石、うち田方二七一・三七五石、畑方三〇・二七一石。上田と中田が田方の六三パーセントを占める水田生産力中位の村である。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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