寺部村(読み)てらべむら

日本歴史地名大系 「寺部村」の解説

寺部村
てらべむら

[現在地名]豊田市寺部町・やしろ町・高橋たかはし町・高上たかがみ千石せんごく町・水間みずま町・川田かわだ町・きようみね

矢作川が大きく東に湾曲する地点にあり、対岸の挙母ころも町と向い合っている。文久二年(一八六二)村絵図によると、村の北側を市木いちぎ小川が流れ、矢作川に注ぐ合流点辺りに寺部陣屋がある。陣屋の前には、天道てんどうとよばれる平井ひらい村に通ずる道ともり村に通ずる道があり、その道の両側に陣屋を中心にして町並がみられる。家並の続く中央部分に、随応ずいおう院・東高院・高善寺・八幡宮が位置し、陣屋の東側に家中屋敷と守綱しゆこう寺がある。

応永二三年(一四一六)三月三〇日の沙弥道善寄進状(猿投神社文書)に「寺部郷太郎丸名内、永代五日市庭道善付買申候、同為作職年貢毎年九月十六日可沙汰申候」とある。

寺部村
てらべむら

[現在地名]若草町寺部

下今井しもいまい村の南、御勅使みだい川扇状地先端の釜無川の氾濫原の平坦地に立地。永禄四年(一五六一)の番帳の四九番に「寺辺の禰き 両人」とみえ、当地の八幡宮(現神部神社)と相殿の山王権現の禰宜が府中八幡宮の勤番役を勤めていた。慶長一三年(一六〇八)の番帳では「寺部之禰宜」が五〇番目にみえる。天正九年(一五八一)三月二〇日の武田家印判状(大野家文書)によれば「寺辺」の孫右衛門が岩殿いわとの(現大月市)に在城し御番普請役を勤める代りに、郷次の普請役を免許されている。

寺部村
てらべむら

[現在地名]御津町新庄しんじよう

新庄村の東に接し、中世には平岡ひらおかほん庄に属していたというが(「若王子権現再建棟札」熊野神社蔵)、年未詳六月二六日の某書状(黄薇古簡集)には「平岡新庄東方領家寺部分」とある。寛永備前国絵図では高一二四石余、正保郷帳には「草山小、雑木林小、日損小」とある。「備陽記」では田畑一〇町一反余、家数三〇・人数一五八。文化年間の「岡山藩領手鑑」では、田高九二石余・五町六反余、畑高三八石余・四町四反余。直高二〇三石余はすべて蔵入。家数三六(うち社方二)・人数一四一、牛一五、百姓林六町八反余、池五、宮一、猟師鉄砲一。

産土神は十二所権現(現熊野神社)で、社領三反二畝一五歩(高三石九斗)を有し、うち三反が寺部村、二畝一五歩が新庄村にあった。

寺部村
てらべむら

[現在地名]幡豆町寺部

東部は標高五〇メートルほどの山が連なり、西部に集落や水田がある。海岸沿いに発達した集落で、今も寺部船溜などがあり、釣客も多く訪れる。近世は松平対馬守領。城山しろやまとか八幡はちまん山とも称す小丘に寺部城跡がある。安泰寺過去帳(安泰寺蔵)に「随雲栄順禅定門 永禄三庚申正月晦日 寺部城主小笠原安芸守也」と寺部城の名が記されている。小笠原家覚書(安泰寺蔵)に「永禄四年辛酉三月十八日家康の御意に而同国西の郷城主鵜殿八郎左衛門同弟四郎五郎両人共安芸守討取其後寺部城主鈴木日向守を安芸守討取」とある。年代的に矛盾があり、信じがたい点もあるが、鈴木氏が寺部城に拠っていた時期もあったようである。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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