対華借款(読み)たいかしゃっかん

改訂新版 世界大百科事典 「対華借款」の意味・わかりやすい解説

対華借款 (たいかしゃっかん)

中国に対する投資の一形態として諸外国が行った資金の貸付であるが,1949年以前は,列強の中国における利権獲得の手段として利用された。中華人民共和国成立後は主にソ連から借款を受けるが,中ソ対立に伴い,またその後の文化大革命により,借款は姿を消した。しかし,70年代後半からとられた現代化政策の中で積極的に借款を受け入れるようになり,現在に至っている。

 対華借款の内訳は,これを政治借款(軍事費・賠償金に充当)と実業借款(鉄道・鉱工業振興)とに分けることができる。その他に債務者に関する中央政府と地方政府の区別,長期・短期,有担保・無担保の区別などによっても借款の性格を知ることができる。1870年代以降1938年末に至る推定累計は,対華借款起債額約38億元(受取額はこれを下回る),外国の事業投資約63億元であり,借款は対華投資全体の約38%という高い比重を占めている。

最初の対華借款は,1854年(咸豊4)上海道台呉健彰(1815?-70?)が小刀会の反乱を鎮圧するために,上海の外国商人から借りたとされている。日清戦争以前には,陝甘総督左宗棠が回教徒蜂起を鎮定するために行った6度の西征借款,清仏戦争時,両広総督張之洞による援台規越借款・広東海防借款,総理衙門による神機営借款など総額約4000万両(テール)であるが,日清戦争までには償還されている。

日清戦争による軍費・賠償金の負担は重く,1894-98年(光緒20-24)の間に,イギリス,ドイツ,フランス,ロシアから7回に及び合計5445万5000ポンドの借款が行われた。94年の匯豊(わいほう)銀款はロンドンにおいて発行された最初の清国公債であり,債券の額面は500両,清国政府の手取りは100両につき98両とされた。また,95年の露仏借款を機にロシアは露清銀行を設立し,清国に対する影響力を強めるなど,列国は借款を通じて自国勢力の扶植を図り,外国銀行は積極的に公債発行の引受けを拡大した。清末の利権回収運動の高揚により,その後しばらく借款は行われなかったが,日露戦争後,日本の東三省への進出に対抗するため,1911年に東三省幣制・軍事借款が起こされた。

 1901年,義和団事件の処理に関する議定書において,4億5000万海関両の賠償金が課せられた(庚子賠款)。返済期限40年,年利4%,利子総額5億3000余万海関両が加算された結果,その後長期にわたり中国の財政を圧迫することとなった。その財源としては,海関税などのほかに各地方政府にも分担金が割り当てられた。また,銀価下落が生じたため,清国側は当初の規定より多くの銀を返済源とせねばならず,ここに〈鎊虧(ぼうき)問題〉が生じた。3年間の紛争の末に清国側の主張は破れ,1905年匯豊銀行から100万ポンド(鎊)の借款を行って金建返済に要する差額を埋め合わせた。その後第1次世界大戦に伴うドイツ・オーストリアへの支払中止,アメリカの辞退など返済に変化が生ずるが,その中で賠償金残高を担保とする引換借款が幾つかなされた(表1参照)。

辛亥革命の後,民国最初の政治借款の交渉は,6国銀行団に対する6000万ポンドであった。銀行団は起債条件として,公債使用上の財政監督権を要求し,また,塩税を担保とすること,塩税に海関税と同一の制度を施行することを求めた。これらの過酷な条件のため,交渉は1913年まで調印に至らなかった。ここに典型的に見られるように,北京政府,南京政府,重慶政府を通じて対華借款には以下の特徴がある。(1)債権者は公私の別無く,所属政府の外交手続を踏んでいる。また,債権国は銀行をもって代表とし,借款の償還元利の取扱いを担当させている。(2)有担保を原則とし,ときには二重の物上担保を施す場合もあり,しかも多くは優先的担保権を定めている。(3)借款担保の財源の管理権を外人が掌握しており,関税・塩税はその代表例である。さらに,担保収入は外国銀行に預入され,借款返済源とされた。(4)利率について見ると,初期には年利4~5%が一般的であったが,しだいに高騰して7~8%となり,担保不確実や短期小借款では10%を越えるものもある。起債額の全額を受け取る場合はまれで,80%にとどまる例もあり,加えて引受銀行は5%前後の手数料を取るため,実質的にはきわめて高利となっている。

実業借款の中心は鉄道借款であり,それは利権と結びついて列強が勢力範囲を拡大するための重要な手段であった。ロシアの東清鉄道,日本の南満州鉄道および福建,イギリスの華中一帯,ドイツの山東半島,フランスの雲南などである。20世紀初頭に利権回収が図られ,民営鉄道が敷設されるが,1911年に盛宣懐が鉄道国有化を進めると,四川,湖南などを中心に保路運動が起こり,辛亥革命の導火線となった。その後,北京政府,南京政府は引き続き鉄道借款によって資金を外国に仰ぎ,それは形を変えた政治借款として増加の一途をたどった。鉄道借款は,先の政治借款とともに次のような特徴がある。(1)勢力範囲内における借款は,まず当該権利国に申し込まねばならず,また,先に借款契約を結んだ国は,同一目的の次回の借款に対し,引受けの優先権を約束させる場合が多い。(2)鉄道財産を担保とする借款は,材料購入,鉄道建設,技術者・会計主任の任命,完成後の監督など各種の特権が付随した(表2参照)。次に電政借款は,郵便,運輸などとともに第1次世界大戦後に数多く行われ,経営権が担保とされた例もある。日中戦争が始まると,イギリス,アメリカ,ソ連から中国に信用供与がなされ,その中にはアメリカの綿麦借款など易貨(えきか)方式の借款も行われた。中華人民共和国の成立とともに,それまでの借款は取り消された。

ソ連の対華借款は,第1次・2次五ヵ年計画を進めるために,1950年から開始された。重工業部門を中心に,化学工業,電気,鉱業などの経済借款4億3000万ドルのほかに,朝鮮戦争戦費および復興資金10億9300万ドル,中ソ合同会社持株譲渡3億1300万ドル,旅順港軍需資材供与借款5億7000万ドルがある。しかし,中ソ対立により,60年には1600人のソ連人技術者が引き揚げ,65年までには対ソ借款の繰り上げ償還がなされた。

1977-78年にかけて,中国は大規模な対外借款と外資導入に踏み切った。預金,借款,援助,合弁などさまざまな形態で外資を導入し,プラント,建設資材,技術等の輸入が図られた。78年から各国と長期の経済協力協定,貿易取決めを結び,その中で借款協定が調印されている。ただし,財政による過大な投資,支出増加による財政インフレのため,79-81年にかけて調整・改革・再調整を行い,政府借款を主に,民間借款も受け入れ始めた。79年から80年6月までの統計では,政府ベースでは,日本,イギリス,アメリカなどからあわせて200億ドル余,民間ベースでは100億に近い信用供与がなされている。また,借款の一種である補償貿易(機械諸設備を実物で借り入れ,その生産物で返済する)を進めており,80年にはIMF(国際通貨基金)および世界銀行における代表権を回復するなど,対外経済関係を積極的に強め,両機関からの借款も成立している。借款の返済資源としては,外資等で開発した石油,石炭,非鉄金属をはじめとし,繊維品,雑貨,委託加工(労働力の輸出),観光,華僑送金などである。
対華投資
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