小串村(読み)こぐしむら

日本歴史地名大系 「小串村」の解説

小串村
こぐしむら

[現在地名]岡山市小串

児島半島の北東端に位置し、東は児島湾に面する。岡山城下への入口にあたる要衝の地。北東端のまる(城山)には、文明(一四六九―八七)頃から小串氏、元亀三年(一五七二)から天正一七年(一五八九)まで宇喜多氏麾下の高畠氏が居城したと伝える丸山城跡があり、幕末期、岡山藩がここに砲台を置いた。初め小浦こうら、宇喜多氏の時代に小串と改められたと伝える。

天正九年二月二四日の穂田元清書状(萩藩閥閲録)に「誠小串不慮付而」とあり、毛利氏と宇喜多氏の対立の渦中にあった。慶長七年(一六〇二)小早川秀秋が伊岐遠江守に常山つねやま(現玉野市)を預けた時、城付地として与えられたうちに「こくし村」四三七石余がある(「知行方目録」吉川家文書)。元和三年(一六一七)児島郡物成帳では田高三二九石余・畠高一三二石余、塩浜三三石余・新塩浜一石余、塩浜運上として銀六二〇匁・加子米二五石余がある。寛永備前国絵図では高五〇〇石余。寛文八年(一六六八)村内に郡中手習所がおかれた(「郡中手習所并小子之記」池田家文庫)


小串村
こぐしむら

[現在地名]宇部市大字小串・中央ちゆうおう町三丁目・上町うえまち二丁目・西本町にしほんまち一―二丁目・西中にしなか町・助田すけだ町・若松わかまつ町・鵜の島うのしま町・南浜みなみはま町一―二丁目・はま町一―二丁目・小松原こまつばら町一―二丁目の各全域、および新町しんまち・中央町二丁目・上町一丁目・朝日町あさひまちの各一部

宇部丘陵の南西端、周防灘沿岸に広がる。江戸時代までは海岸部には沖の山おきのやまと称する砂嘴が延び、小串の丘陵地とこの沖の山との間は入海となっており、しまノ島などの小島があって、村の西部で宇部本うべほん(真締川)が周防灘に注ぐ。東は宇部、西は藤曲ふじまがりの各村に接する。萩藩領で舟木宰判に属する。

村域内にある現宗隣そうりん寺の地にあった普済ふさい寺の永和五年(一三七九)付銅鐘銘に「宇部郷松江山普済禅寺」とあるので、中世には小串村の地は宇部郷の郷域であったと考えられる。


小串村
こぐしむら

[現在地名]豊浦町大字小串

狗留孫くるそん山から西南の海に延びる丘陵の中間にある浄天じようてん(三二二・一メートル)からひびき灘に続く稜線をもって北は宇賀うか村、東は浄天山から南へ延びる稜線、南は豊後田ぶんごだ川でともに川棚かわたな村に接し、西は響灘に面する。集落は丘陵と海に挟まれ、堂道どうどう川・稲荷いなり川の小沖積平地に形成される。長府藩領で西豊浦郡奥支配に属する。

地名は小牛こうしが転訛したものとも、海に突き出る小さい岬をくしと称することから、小串というともいわれる。

寛永一六年(一六三九)八月一六日付の、阿川あがわ本浦庄屋内山杢右衛門が山県孫右衛門に提出した文書(豊浦郡水産史料)に「寛永三年飛騨守様御領之時六月に小串之浦衆網持来網引申」とみえるのが早い。


小串村
こぐしむら

[現在地名]新魚目町小串郷こぐしごう

似頸にたくび村の北に位置する。北の小串崎の沖に小島がある。元応二年(一三二〇)一〇月二一日の青方高光和与状案(青方文書)に「こくし」 とみえ、五島西浦部青方にしうらべあおかた(現上五島町)をめぐる高光とその兄の高継との相論が和与となり、高光の知行分となった曾禰そねの四至のうち東の境として当地がみえる。鎮西探題はこれを確認しているが、「小串堺」と記される(同年一一月九日「鎮西裁許状案」同文書)。江戸時代は魚目掛に属し、魚目村(魚目中)のうちとして扱われる場合がある。初め福江藩領で、寛文元年(一六六一)より富江五島領となる。古来の由緒をもつ庄屋の中野家は屋号が「あつちの宿」で、網船をもって鮪・海豚・鰯・鰤などの漁に従事していた(「旧来網代関係原由書」五島魚目郷土史)


小串村
おぐしむら

[現在地名]吉井町小串

石神いしがみ村の東、南は深沢ふかさわ村、東は緑野みどの三木みつぎ(現藤岡市)と接し、西境を北流する土合どあい(深沢川)が北西部でかぶら川に合して北境を東流する。村央を下仁田しもにた(姫街道)が東西に走る。小串を名字とする武士が「吾妻鏡」「楠木合戦注文」「永享記」や永禄四年(一五六一)の関東幕注文(上杉家文書)などに散見する。寛永二年(一六二五)当村四〇石が長谷川久三郎に、三〇〇石が倉橋内匠助に与えられた(記録御用所本古文書)。寛文郷帳では田方二八六石九斗余・畑方一〇七石余、幕府領と旗本倉橋領の二給。江戸後期の御改革組合村高帳では幕府領。


小串村
おぐしむら

[現在地名]東城町小串

北は備中国油野ゆの(現岡山県阿哲郡神郷町)、東は同国上神代かみこうじろ(現同郡哲西町)に接する。村内北東部を水源とする小串川が中央部を南西流する。四周は高い山に囲まれ、小串川に沿ってやや開けた小盆地に集落が散在する。もともと砂鉄採取のための鉄穴かんな流しによって開かれた村と考えられ、鉄穴流しによる人工的な残丘(鉄穴骨)が随所に見られる。

元和五年(一六一九)の備後国知行帳による村高は一四二石余であるが、「芸藩通志」によれば畝数二五町八反余に対し高一八七石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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