小坂郷(読み)おさかごう

日本歴史地名大系 「小坂郷」の解説

小坂郷
おさかごう

沼田ぬた庄内に成立した中世の郷で、沼田川下流北部に位置する。元弘三年(一三三三)七月一九日付後醍醐天皇綸旨(小早川家文書)により、沼田小早川惣領家朝平に小坂郷の知行が安堵された。応永二一年(一四一四)四月一一日付小早川常嘉譲状案写(同文書)によると、塩入市庭(沼田新市)を含む小坂郷の地頭職公文職・検断権が常嘉(則平)から子の持平に譲られたが、永享五年(一四三三)六月日付の小早川氏知行現得分注文写(同文書)には小坂郷二三〇貫文、新市在家一五〇は則平知行分とあって、持平から取戻しており、永享一二年六月二七日付足利義教御判御教書(同文書)は、小坂郷を含む持平知行分を熙平の知行としている。


小坂郷
おさかごう

古代の出石郡小坂郷(和名抄)を継承する中世の国衙領。弘安八年(一二八五)の但馬国太田文には「小坂郷 八拾五町百六十分」とみえ、「地頭周防三郎」「八幡宮神人五拾町七反九十六分」の注記があり、田地の内訳は八幡宮以下仏神用三八町六反六〇歩、地頭給五町、公田四一町四反一〇〇歩である。地頭の周防三郎は通称で、「吾妻鏡」に登場する関東御家人の周防(島津)三郎左衛門尉忠行と思われる。郷内には多くの山城石清水いわしみず八幡宮神人が居住していたことも注目される。


小坂郷
おさかごう

和名抄」所載の郷。同書高山寺本に「乎左加」、東急本に「乎佐加」の訓がある。円山まるやま川支流出石川の下流域、現出石町鳥居とりい(近世の鳥居村・尾崎村)一帯に比定される。天平勝宝二年(七五〇)正月八日の但馬国司解(東南院文書)によると、勅命により奴婢五人を但馬国の正税で買上げたうち奴三人は出石郡からで、そのうち稲九〇〇束で買上げられた歳二四の池麻呂は、出石郡少坂郷戸主従七位下宗賀部乳主の奴であった。池麻呂ら五人は朝集使賀茂直秋麻呂にともなわれて上京、奈良東大寺に施入されたが、同年三月六日の但馬国司牒、同年五月一三日および七月二日の東大寺三綱牒案(いずれも同文書)などによると、池麻呂は出石郡穴見あなみ郷より納入の奴糟麻呂とともに二月二六日に逃亡して三月六日に捕らえられて返送、三月一六日に再度逃亡を繰返すので、結局糟麻呂の旧主穴見郷の大生直山方へ還送し、山方に買上額の稲を東大寺に返納させた。


小坂郷
おさかごう

「和名抄」諸本にみえる郷名。高山寺本に「乎左加」、東急本に「乎佐加」の訓がある。現富士市伝法でんぽう瓜島うりじま町・弥生やよい香西こうさい永田ながた町・天間てんま久沢くざわ入山瀬いりやませ厚原あつはらなどに比定する説(大日本地名辞書)、現芝川しばかわ下柚野しもゆの近世に「上方荘保坂郷」といったと伝えることから同地とする説(駿河志料)などがあるが未詳


小坂郷
こさかごう

「和名抄」高山寺本に「乎左賀」の訓がある。東急本も「乎佐加」の訓を付すが、郷名を「小板」と記すのは誤り。郷域は現浅口郡鴨方かもがた小坂東こさかひがし・小坂西を中心とした地域に比定される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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