日本歴史地名大系 「小島田村」の解説 小島田村おしまだむら 長野県:長野市更北地区小島田村[現在地名]長野市小島田町千曲川の左岸、松代道(現長野―真田線)に沿う村。北は大塚(おおつか)村、西は広田(ひろだ)村、南は西寺尾(にしてらお)村、東は千曲川に臨む。長享二年(一四八八)諏訪社下社の春秋之宮造宮之次第に「鴛間田」とも記す。古代は「和名抄」の池に属すといい、「延喜式」神名帳に記された頤気神社は、村内に比定されている。中世は「鴛間之郷」あるいは「小嶋田之郷」に属したとされる。永徳三年(一三八三)二月の小笠原清順譲状に「譲与所領等、子息次郎長秀 一所 信濃国小嶋田郷土用犬丸可知行」とある(小笠原文書)。 小島田村こしまだむら 徳島県:鳴門市小島田村[現在地名]鳴門市瀬戸町小島田(せとちようこしまだ)島田島の南西部にあり、南西は小鳴門海峡に面する。対岸堂(どう)浦との間に島田渡がある。「鳴門辺集」によればもとは堂浦の内で、慶長年中(一五九六―一六一五)に塩浜が築立てられて村が成立、開基は甚右衛門という。一方、「板野郡誌」では、明暦二年(一六五六)の文書によって小島田の古名は浜田または小島が崎といい、慶長年間淡路国津名(つな)郡川井(かわい)村(現兵庫県津名郡一宮町)から川上九郎左衛門が移住してきて塩田を築き、田畑を開墾したという。正保国絵図には島田村とあり、高三一石。寛文四年(一六六四)の郷村高辻帳でも島田村で、田二五石余・畠五石余、旱損、芝山・はへ山の注記がある。 小島田村おしまだむら 福島県:相馬郡鹿島町小島田村[現在地名]鹿島町小島田南東流する真野(まの)川南岸の平坦地に位置し、東は大内(おおうち)村、南は川子(かわご)村、真野川対岸は南右田(みなみみぎた)村・北右田村。正和二年(一三一三)一一月二三日の相馬通胤譲状(大悲山文書)によると、「陸奥国行方郡内大悲山村・□□田村」などの地頭職が通胤(大悲山氏の祖)の重代相伝の所領として子息行胤に譲られ、同三年三月四日に鎌倉幕府から安堵の外題を得ている。相馬系図(歓喜寺蔵)に通胤の所領として小島田村がみえることから、前掲通胤譲状にみえる大悲山(だいひざん)村(現小高町)とともに行胤に譲られた村は当村とみられる。 小島田村こじまたむら 群馬県:前橋市小島田村[現在地名]前橋市小島田町西は寺沢(てらさわ)川で女屋(おなや)村に対し、北は江木(えぎ)村、東と南は笂井(うつぼい)村。南端を桃木(もものき)川が南東流する。大門跡(だいもんあと)に仁治元年(一二四〇)一二月一七日の紀年銘のある石造供養塔があり、橘清重が子供の菩提のため建立している。清水尻(しみずじり)から弘安七年(一二八四)の板碑が発見されており、古墳丘上に延徳五年(一四九三)銘の石仏がある。山内上杉氏の所領を示す年月日未詳の上杉氏上州所領目録(彦部文書)に「大胡庄之内」として「小嶋田村」とある。 小島田村こしまだむら 福島県:福島市荒川南岸地区小島田村[現在地名]福島市大森(おおもり)前田(まえだ)村の北の平坦地に位置し、西は大森村。大森川(旧荒川)が南部から中央部を北東流する。福島街道が通る。天文七年(一五三八)の段銭古帳に「御はんの所」のうちとして「こし満た」とみえ、段銭は一二貫六〇〇文。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高九〇七石余。近世初期の邑鑑では大森村に含まれたものとみられる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by