改訂新版 世界大百科事典 「小市民映画」の意味・わかりやすい解説
小市民映画 (しょうしみんえいが)
昭和初期(1930年代前半)に流行した小市民(すなわち安サラリーマン)の生活と生活感情を描く日本映画の一傾向とその作品群の総称。欧米の日本映画研究書ではShomingeki(庶民劇)とされ,〈下級中産階級の人々の生活を描いた映画〉と説明されている。小津安二郎監督の《東京の合唱》(1931),《生れてはみたけれど》(1932)を頂点に,倉田文人監督《小市民》(1932),成瀬巳喜男監督《夜ごとの夢》(1933),島津保次郎監督《隣の八重ちゃん》(1934),五所平之助監督《生きとし生けるもの》(1934),《人生のお荷物》(1935),内田吐夢監督《限りなき前進》(1937)等々,サイレントからトーキーにかけての諸作品がこの系譜の代表作として挙げられる。
1920年代の初め,野口雨情作詞,中山晋平作曲の流行歌《枯れすすき》が全国をふうびし,これを主題歌とする《船頭小唄》(1923。サイレントの画面や字幕に歌詞がでた),続く《籠の鳥》(1924)などの〈小唄映画〉が流行した。23年の関東大震災を間にはさむ慢性的経済恐慌にあえぐ安月給の小市民層の絶望とペシミズムの心理を反映した現象であったが,この絶望とペシミズムは,やがて1920年代末に左翼思想の影響を受けた〈傾向映画〉が生まれてくる潜在的基盤ともなった。傾向映画に対抗して〈健康〉〈明朗〉〈愛と感傷〉を基調とした〈松竹蒲田調〉の〈ナンセンス喜劇〉から育った監督の一人である小津安二郎は,傾向映画《生ける人形》(1929)や《何が彼女をさうさせたか》(1930)と同年に《大学は出たけれど》(1929)と《落第はしたけれど》(1930)をつくり,社会的反抗のイデオロギーではなく,小市民の不安や悲哀をそのもっとも日常的な生活のリアリティとしてとらえて描いた。この小市民の生活に〈密着〉した写実的なスタイルは〈日常性のリアリズム〉〈風俗的リアリズム〉,あるいは〈小市民的リアリズム〉と呼ばれ,このスタイルの映画が〈小市民映画〉と呼ばれたのであった。31年,満州事変を機に軍部が政治の主導権を握り,左翼が弾圧されて傾向映画が死滅したのち,暗い現実からの逃避心理のあらわれである〈ナンセンス映画〉や軍国主義に迎合する映画への転換など,映画人のイデオロギー的混乱の中で,小津安二郎は〈サイレント映画の美学〉を追求し,失業苦をテーマにした《東京の合唱》,子どもの目をとおしてサラリーマン生活の絶望的な暗さを描いた《生れてはみたけれど》でサイレント映画の頂点に達した(日本映画は,1931年につくられた《マダムと女房》でトーキー時代の夜明けを迎えていた)。なお,小津安二郎と親交のあった山中貞雄を中心にした〈鳴滝組〉が,〈髷をつけた現代劇〉を主張して1930年代後半につくった時代劇(山中貞雄監督《街の入墨者》1935,稲垣浩監督《利根の川霧》1935,等々)も時代劇の衣装をまとった小市民映画とみなされる。
執筆者:柏倉 昌美
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報