改訂新版 世界大百科事典 「小田治久」の意味・わかりやすい解説
小田治久 (おだはるひさ)
生没年:1283-1352(弘安6-正平7・文和1)
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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鎌倉後期~南北朝時代の武将。貞宗(さだむね)の子で初名は高知(たかとも)。常陸(ひたち)国(茨城県)生まれ。尾張権守(おわりごんのかみ)、宮内権少輔(ごんのしょう)、常陸介(すけ)となる。1327年(嘉暦2)幕府の命を受け陸奥(むつ)安東(あんどう)氏の乱を平定するが、幕府が滅亡すると万里小路藤房(までのこうじふじふさ)を伴って上洛(じょうらく)し、建武政府に従った。36年(延元1・建武3)楠木正家(くすのきまさいえ)の瓜連城(うりづらじょう)を助け、38年(延元3・暦応1)には北畠親房(きたばたけちかふさ)を小田城に迎え、関東の南軍の中心として高師冬(こうのもろふゆ)と戦ったが、41年(興国2・暦応4)降服、以後足利(あしかが)方に属し南軍と戦った。
[市村高男]
(山田邦明)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…中世の常陸国の豪族。下野の豪族宇都宮宗綱の次子八田知家を祖とする。知家は父宗綱の所領の一つである,現在の茨城県下館市八田を本拠とし八田武者所(はつたむしやどころ)と称した。治承・寿永の内乱に際し,知家はいち早く源頼朝に従い,常陸国内の諸勢力を圧して,同国内の軍事指揮権(のちの守護)を与えられた。のち筑波山の南麓,現在のつくば市小田へ本拠を移し,小田氏を名のる。在来の大勢力であった常陸平氏を圧迫して,常陸国の南半分を勢力下においた。…
※「小田治久」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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