四国南半部を占める県。南部は室戸(むろと)・足摺(あしずり)両岬の間に土佐湾を抱き、北部は四国山地で愛媛・徳島両県と接する。東端の安芸(あき)郡東洋町甲浦(かんのうら)から南西端の宿毛(すくも)市鵜来島(うぐるしま)まで、経度差約2度、直線距離で約200キロメートルに及ぶ。土佐湾岸から北部の愛媛・徳島両県境までの幅は30~40キロメートルで、北東―南西方向に細長い。面積7103.63平方キロメートルは、四国4県のうち最大で、四国の約38%を占める。
県の北部を四国山地が占めるため、他県への交通が不便であり、四国4県のなかでも、もっとも隔絶性が高く、近代工業の発達も遅れ、第一次産業に依存する度合いも大きい経済構造をもつ。県庁所在地は高知市。
人口は69万1527(2020)。人口密度97.3人は全都道府県中でも五指に入る低さである。明治初頭の人口は約50万人であったが、人口増加率は低く、1955年(昭和30)ようやくピークの88万人となったが、1960年代の高度経済成長期には人口流出が著しく、1970年には78万人台となり、その後は漸増傾向に転じ、1975年に80万人台を回復した。県人口の半数は県央の高知平野とその周辺に集中、なかでも高知市に県人口の50%弱が集中する一方、県域の大部分を占める山間部は、人口減少傾向が続き、過疎地帯となっている。旧城下町で、1889年(明治22)に市制施行した高知市以外の室戸、安芸、南国(なんこく)、土佐、須崎(すさき)、中村(現、四万十(しまんと)市)、宿毛、土佐清水(とさしみず)の8市は、いずれも昭和30年前後に町村合併して市制施行をみたもので、昭和末にはわずかに超える南国市を除けば、人口5万人に達するものもなく、中心市街地も小さく、人口集中地区(DID)人口も1、2万人規模であった。平成の大合併を経て、2020年(令和2)10月時点では11市6郡17町6村に再編されている。なお、古代には、県域は土佐一国で、南海道に属した。
[大脇保彦]
県域の大部分は四国山地で占められ、平野に乏しい。四国山地は、県内最高峰の瓶ヶ森(かめがもり)(1897メートル)をはじめ1500メートルを超える峰々が県境を形成、中央構造線に並行して走る御荷鉾(みかぶ)、仏像(ぶつぞう)などの構造線の影響を受けて、幾重にも東西方向の山脈(やまなみ)を連ね、南に向かってしだいに高度を低め、東部では安芸山地、西部では幡多(はた)山地が県東西両翼の半島部を形づくる。四国山地中央部で吉野川上流部が縦谷を形成するほか、四万十(しまんと)川、仁淀(によど)川、物部(ものべ)川、奈半利(なはり)川などの主要河川の流域は、ほとんどこれらの山地帯に含まれ、曲流峡谷をなす部分も多く、吉野川以外はいずれも土佐湾に流入している。物部川、国分(こくぶ)川、鏡(かがみ)川、仁淀川の各下流低地の総称である広義の高知平野以外には、四万十川下流の中村平野、安芸川下流の安芸平野など、いくつかの狭小な低地があるにすぎない。680キロメートルに及ぶ長い海岸線をもつが、一般に、単調な砂浜、磯(いそ)の海岸が大部分を占め、沈水性の屈曲に富む海岸は、土佐湾中央部の浦戸、浦ノ内、須崎、久礼(くれ)などの湾、県東端の東洋町甲浦港、南西部の宿毛湾などに限られている。室戸・足摺両岬を中心とする海岸段丘の発達も知られている。
自然公園には、四国南端部にあり豪壮な断崖(だんがい)をみせる足摺岬や、隆起海食台の竜串(たつくし)・見残(みのこし)の景観が中心の足摺宇和海国立公園、四国南東端にあり足摺岬と相対する室戸岬を中心とする室戸阿南海岸国定公園があるほかに、四国山地の東部の白髪山(しらがやま)一帯は剣山(つるぎさん)国定公園の一部に、県央部の瓶ヶ森一帯は石鎚(いしづち)国定公園の一部に含まれる。また県内には入野(いりの)、奥物部、白髪山、宿毛、手結住吉(ていすみよし)、横倉山(よこぐらやま)、横浪(よこなみ)、興津(おきつ)、須崎湾、中津(なかつ)渓谷、龍河洞(りゅうがどう)、安居(やすい)渓谷、四国カルスト、北山、梶ヶ森(かじがもり)、魚梁瀬(やなせ)、鷲尾山(わしおやま)、工石山陣ヶ森(くいしやまじんがもり)の県立自然公園がある。
[大脇保彦]
室戸・足摺両岬沖を黒潮が流れ、冬の北西季節風が東西に連なる四国山地によって防がれるので、土佐湾岸部は、冬温暖で積雪もほとんどみられない。1月の平均気温は足摺岬で8.7℃、高知市で6.3℃であるが、晴天が多く、日最高気温は真冬でも平均12、13℃となる。一方、8月の平均気温は27℃前後であるが、真夏日(30℃以上)、夏日(25℃以上)の日数は高知市でそれぞれ60日、140日程度で、京阪神地方とほぼ同じであり、室戸・足摺両岬付近でははるかに少なく、風もあり、むしろ気温は低い。県域の大部分を占める山間部では、冬の寒さは厳しく、1月の平均気温1℃前後と北陸なみの所もあり、積雪もみる。梅雨、台風期の降雨も多く、沿岸部で2500ミリメートル、安芸山地の魚梁瀬など山間部では3000ミリメートルを超える多雨地もある(1981~2010)。台風の進路に位置し、襲来数はわが国有数であり、風水害の頻度も多い。
[大脇保彦]
先土器時代の遺物発掘事例は少なく、あまり明らかでない。一方、縄文期遺跡は、前期から晩期にわたり、広い範囲に散在してみられる。高岡郡佐川町の城の台(しろのだい)、不動ガ岩屋などの石灰洞穴住居跡(前期)、宿毛市の宿毛貝塚(中・後期)、晩期から弥生(やよい)期にわたる四万十川沖積低地の入田遺跡(にゅうたいせき)(四万十市)などが著名であり、吉野川、仁淀川、四万十川の中・上流部にも分布するが、高知平野以東には少ない。弥生期遺跡になると、県央の高知平野に集中するほか、中村、窪川(くぼかわ)、安芸などの低地にもみられる。とくに、物部川下流、旧氾濫原(はんらんげん)に位置し、古代条里制遺構の残る現水田付近の下層から弥生人の足跡をとどめた水田跡が発掘された南国市田村遺跡、鍾乳洞(しょうにゅうどう)内の龍河洞(りゅうがどう)住居跡(香美市)などが知られる。出土青銅器をみると、県央部は北九州、畿内(きない)両文化圏の交錯地で、銅鉾(どうほこ)は安芸市を東限として西半部に、銅鐸(どうたく)は香長(かちょう)平野を西限として東半部に分布する。宿毛市の平田曽我山(ひらたそがやま)古墳などを除いて、古墳の大部分は7世紀前後のもので、高知平野縁辺の山麓(さんろく)部に集中し、すでに高知平野への生産力の集積が推測される。『国造本紀(こくぞうほんぎ)』にいう崇神(すじん)・成務(せいむ)朝という時期はともかく、古くは波多(はた)、都佐(とさ)の2国があったとされ、『古事記』には「土左国は建依別(たけよりわけ)という」とある。『日本書紀』天武(てんむ)天皇4年(675)条に土佐国司のことが初見するように、7世紀末までには中央政権の力がしだいに浸透、9世紀中ごろまでに幡多、吾川(あがわ)、土佐、安芸、高岡、香美(かみ)、長岡の7郡が設置、高知平野を中心に条里制の施行をみた。国府、国分寺は高知平野北部(南国市)に、長岡郡には軍団も設置され、紀貫之(きのつらゆき)の『土佐日記』にみえるように、10世紀には浦戸湾奥の大津(高知市)に外港があった。一方、土佐は遠国で、遠流(おんる)の地とされ、石上乙麻呂(いそのかみおとまろ)、大伴古慈斐(おおとものこじひ)、池田親王、紀夏井(きのなつい)、藤原師長(もろなが)、菅原高視(たかみ)らが配流された。平安時代初期、すでに久満荘(くまのしょう)(高知市)、田村荘(南国市)などの荘園(しょうえん)化が知られ、末期には朝倉荘、和食(わじき)荘、片山荘、夜須(やす)荘、介良(けら)荘、奈半(なは)荘、吾椅(あがはし)荘、津野荘などの各荘園が史料にみえる。
[大脇保彦]
12世紀末、土佐の豪族は源平両派に分かれて割拠していた。平治(へいじ)の乱(1159)以来、介良荘(現、高知市・南国市)に配流の源希義(まれよし)(頼朝(よりとも)の弟)は、1180年(治承4)頼朝挙兵のころ平家方に討たれたが、1192年(建久3)ごろには早く佐々木経高(つねたか)が守護に任じられたように、鎌倉幕府の力が及び、鎌倉期末には、執権北条高時(たかとき)が土佐国守護となり、安東(あんどう)氏らを守護代に任命した。なお、承久(じょうきゅう)の乱(1221)後、土御門(つちみかど)上皇が、元弘(げんこう)の変(1331)後、尊良(たかなが)親王が土佐に配流されている。南北朝期には、北朝、南朝両方の割拠するところとなり、争いが続いたが、1340年(興国1・暦応3)南朝方の拠点大高坂城(高知市)の落城以後、南朝勢力は衰退、14世紀末ごろには四国東半を支配する守護細川氏一門の頼益(よります)が守護代として、田村荘に居館を置き、以後、満益(みつます)、持益(もちます)、勝益(かつます)の4代が県央部に勢力を振るった。応仁(おうにん)の乱(1467~1477)後、土佐国内も戦国期に入り、安芸、香宗我部(こうそがべ)、山田、長宗我部(ちょうそがべ)、本山(もとやま)、吉良(きら)、大平(おおひら)、津野などの土豪と、応仁の乱以後、幡多郡中村に下向した一条氏らが割拠、興亡を繰り返したのち、1575年(天正3)長宗我部元親(もとちか)が土佐国内を統一、さらに伊予(いよ)(愛媛県)、讃岐(さぬき)(香川県)、阿波(あわ)(徳島県)に出兵、1585年(天正13)春四国を制したが、豊臣(とよとみ)秀吉の四国出兵により7月には降伏し、土佐一国を与えられ、領国大名化の道をたどった。1588年(天正16)冬、元親は本拠地岡豊(おこう)(南国市)から城下町建設途上の大高坂へ移り、さらに1592年(文禄1)ごろには、浦戸湾口の浦戸城へ移転した。この間、九州、小田原、朝鮮出兵に参加する一方、浦戸湾央の新田干拓、国内検地を行うなど、領国経営に努めた。元親の後を継いだ盛親(もりちか)は、関ヶ原の戦い(1600)で西軍に参加、のち除封された。かわって、遠江(とおとうみ)(静岡県)掛川(かけがわ)城主山内一豊(かずとよ)が土佐へ封ぜられ、1601年(慶長6)浦戸へ入城した。
[大脇保彦]
山内氏は大高坂山に新たに高知城を築き、1603年(慶長8)浦戸から移り、鏡川三角州に城下町を建設、以後、16代、廃藩置県まで土佐国を領した。朱印高20万2600石。土佐藩24万石ともいわれるが、これは長宗我部検地帳の田畑2万4000町歩を1反1石で換算したものともいう。幡多郡中村には一豊の弟康豊(やすとよ)を配置して2万石を分与し、国内要地の高岡郡の佐川、窪川、幡多郡宿毛、長岡郡本山、安芸郡安芸土居(どい)には一門重臣を配した。中村山内家は2代で断絶、のち土佐2代藩主忠義(ただよし)の次男忠直(ただなお)が3万石を分与され、中村藩を建てたが、1689年(元禄2)廃藩、一時幕領となり、1696年土佐藩へ返された。
土佐藩政の基礎は、一豊の妹の孫にあたる野中兼山(けんざん)の執政(奉行(ぶぎょう)職)の時期に固められた。兼山は領内各地に灌漑(かんがい)用水路を開き、郷士を取り立て、新田開発を進めた。さらに、港湾の整備、輪伐法の採用などの林業経営の改良、製紙業などの奨励など勧農殖産の諸施策に努めたが、1663年(寛文3)失脚した。以後はいわゆる寛文改替(かんぶんかいたい)となり、商業や各種の統制も緩められ、農村への商品経済の浸透も進行したといわれる。藩政の完成期は、地方知行(じかたちぎょう)から蔵米(くらまい)知行に移行する天和(てんな)の改革(1681年ごろ)から大定目(だいじょうもく)の制定をみる1690年(元禄3)ごろとされる。谷時中(じちゅう)に始まり、野中兼山の実学にも反映され、寛文改替で衰退した土佐南学を、谷秦山(しんざん)が復興するのもこのころである。秦山の学問は子垣守(かきもり)、孫真潮(ましお)に受け継がれ、国学をも入れ、多くの門流を派生しつつ、藩の学問や思想の主流となった。幕末には、郷士や庄屋たちの間にも影響して、尊皇思想が醸成された。
1861年(文久1)武市瑞山(たけちずいざん)を盟主に、坂本龍馬(りょうま)、中岡慎太郎、吉村虎太郎(とらたろう)らにより結成された土佐勤王党も、郷士、庄屋層が中心であった。一方、15代藩主豊信(とよしげ)(容堂)は、吉田東洋(とうよう)を起用、安政(あんせい)の改革で藩財政の立て直しを図り、公武合体論を推進したが、吉田東洋が暗殺され、勤王党は弾圧された。幕末の激動のなかで、脱藩して活躍し、薩長(さっちょう)連合などを成し遂げた坂本龍馬は、吉田東洋門下の後藤象二郎(しょうじろう)や福岡孝弟(たかちか)にも接近、土佐藩海援隊を組織した。龍馬の大政奉還や公議による政治などを含むいわゆる「船中八策」は、後藤により山内豊信に進言され、1867年(慶応3)土佐藩は幕府に大政奉還を建白、幕府はこれを受け入れ上奏に及んだ。
[大脇保彦]
1869年(明治2)、土佐藩は薩摩、長州、肥前の3藩とともに版籍奉還を建白、6月に聴許され、16代藩主山内豊範(とよのり)は高知藩知事となった。1871年の廃藩置県で高知県が成立。1874年には宿毛湾の沖ノ島、鵜来(うぐる)島、姫島が愛媛県から移管、1876年名東(みょうどう)県(旧阿波(あわ)国)をあわせたが、1880年旧阿波国は徳島県として分離し、現在の高知県域がほぼ確定した。
明治初頭、近代化の過程のなかで重要な役割を果たした自由民権運動が「自由は土佐の山間に出づ」といわれたように土佐を中心に展開した。1873年征韓論に敗れ、西郷隆盛(たかもり)らとともに下野した板垣退助(たいすけ)は、翌年4月、片岡健吉、林有造らと高知市に立志社を創立、これを中心に自由民権運動が高まり、さらに全国的な愛国社にも発展した。西南の役後の政府の立志社弾圧にもかかわらず、中江兆民(ちょうみん)、植木枝盛(えもり)、坂本直寛(なおひろ)らの思想家の活動も含め、運動は続けられ、1881年10月、国会開設の政府決定とともに、東京で自由党が創立されたが、板垣総理をはじめ、中島信行(のぶゆき)、後藤象二郎、馬場辰猪(たつい)、竹内綱(つな)、林包明(かねあき)、大石正巳(まさみ)、林正明など幹部の大部分は高知県人であった。1882年岐阜で板垣が襲われ、1884年には党は解散した。片岡らによる政府批判の建白運動、1887年の保安条例による東京退去(570人中234人が高知県人)などを経て、1890年国会開設の直前、板垣によって立憲自由党が再興されるなど、高知県は自由民権運動の渦中にあった。
[大脇保彦]
古来、位置的条件の不利もあり、とくに近代以降は、工業の発達が遅れ、全国的にみても工業生産が振るわない県の一つで、相対的に第一次産業に傾斜した経済構造をもっている。平野に恵まれず、県域のほとんどが山間地であり、かつ土佐湾を抱くように長い海岸線をもつので、他県に比較して林業や水産業の占めるウェイトも高い。
農業では、かつては米の二期作が盛んであったが、1960年代の経済成長期以降は、従来から行われていた施設園芸がとくに盛んである。これは温暖期や日照時間の長い有利さとともに、台風を避け、狭い経営耕地の集約的利用、さらに施設園芸の場合は、市場からの距離の克服を目ざしたもので、土佐の風土と結び付いた性格が知られる。
[大脇保彦]
平野が少なく、水田に乏しい土佐では、藩政期から米は不足がちで、そのうえ台風期の害も少なくなかった。明治30年代の早稲(わせ)品種の改良などもあって、東部の安芸平野や県央部の高知平野では、明治末から大正期にかけて稲の二期作が普及し、最盛期の1935年(昭和10)前後には、稲の作付総面積の14%、5700ヘクタールに達した。第二次世界大戦後は、1960年(昭和35)ごろの4000ヘクタールをピークに、以後は減少、とくに米の生産調整政策の行われた1969年以降は激減、1980年以降はほとんど消滅に近い状況である。しかし、高知平野では現在でも、早稲作が多いことや早掘りのサツマイモの収穫後の跡作稲(8月上旬田植)などに、二期作の名残(なごり)がみられる。
県の代表的農業は施設園芸で、ナス、キュウリ、ピーマン、シシトウ、メロン、スイカなどの栽培のほか、早掘りサツマイモ、ニラ、ショウガなどを促成栽培、抑制栽培、半促成栽培などの組合せで生産し、京浜、阪神、中京などの大都市圏へトラック、フェリー、ジェット機などで出荷している。近年は北海道、東北、北陸市場への出荷も増大している。施設園芸は浦戸湾付近の砂丘地利用に始まり、明治末から大正期にかけて安芸地方でも普及した。第二次世界大戦前すでに共同出荷体制もとられ、産地形成がみられたが、昭和30年代にビニルハウスの普及、大都市圏市場の拡大、交通手段の発達に伴って発展し、1965年ごろには、米と野菜の生産額比はほぼ同じとなった。その後、稲の減反政策がとられたこともあって、他産地との競合にも対応しつつ、高知平野を中心にさらに拡充発展し、1996年(平成8)には、米の4倍余の生産額を示し、2004年においても同様に4倍強となっている。冬期の日照時間の長いことを利用した土地集約的農業であり、このため、耕地10アール当りの農業産出額は、都道府県中屈指の高さを示している。
山間部では、中世以来、傾斜地利用のソバ、ヒエ、トウモロコシなど雑穀栽培の焼畑農業が盛んであった。また明治中期以降はミツマタも加わり、古くからのコウゾとともに製紙原料の生産地でもあった。焼畑は1960年ごろまでは一部に残存した。1960年代、過疎地化傾向が強まる一方、奈半利(なはり)川流域のユズ、仁淀(によど)川流域の茶、四万十川流域のシイタケ栽培などに特化した商品作物生産地の形成もみられる。
中世以来、山間部は用材産地として知られ、上方(かみがた)へも積み出された。藩政期にも藩有林を中心に、林業は保護育成され、大坂市場でも土佐材は名があり、藩の重要な財源の一つともなった。近代以降、魚梁瀬(やなせ)のスギ、白髪山(しらがやま)のヒノキなど藩有林の多くは国有林化され、2015年現在、中国・四国中ではぬきんでて国有林率は高い。林野率83.7%は全国一で林道も整備されている。昭和30年代までは薪炭(しんたん)生産も盛んで、一部では白炭の生産もみた。奈半利川河口の奈半利町、田野町、四万十川河口の四万十市下田は林産物集散地として古くから栄えた所である。
[大脇保彦]
水産物生産額、漁船数、漁港数は全国の10位前後で、人口1人当り生産額は長崎県に次いで高い。かつては、砂浜海岸の地引網、岩石海岸の定置網(とくに明治期以降のブリの大敷網)、宿毛湾のイワシ網などや沿岸釣り漁業も盛んであったが、現在、沿岸漁業はシラス網漁業、宿毛湾・野見湾などのハマチ養殖などを除いては不振である。黒潮にのって回遊してくるカツオは『延喜式(えんぎしき)』の土佐の貢ぎ物にみられるように、古くから土佐の水産物を代表するものであった。近世以降もカツオ漁は捕鯨業とともに漁業の中心をなした。また、かつお節加工も紀州(和歌山県)からの技法を取り入れ、土佐節の名で知られた。現在、カツオ漁は1月の台湾沖から秋の三陸沖までの近海一本釣りが中心で、県内では、土佐清水市、土佐市宇佐などがその根拠地。近海延縄(はえなわ)から発展した遠洋マグロ漁業は、室戸港などを根拠地として、南太平洋、インド洋、大西洋などに出漁したが、1970年代半ば以降衰退している。
[大脇保彦]
製造業出荷額は沖縄に次いで全国で2番目に低かったが、2003年に全国最下位に転落した。しかし、2004年は5570億円で沖縄を抜いている。窯業、土石、木材、食品、生産用機械、はん用機械、輸送機械、電気機器、パルプ、製紙などがあり、地場産業から発達したもののウェイトが高い。窯業、土石業は、四国山地前山の秩父(ちちぶ)帯の豊富な石灰岩を原料とし、藩政期以来の石灰製造業のほか、セメントの大手工場もある。食品業ではかまぼこ、ちくわ、かつお節など水産加工に特色があり、輸送機械も、藩政期以来の伝統をもつ浦戸湾の造船業が主である。紙は山間部のコウゾを原料として古代から手漉(てす)き和紙がつくられ、近世には藩財政を支え、明治期以降もミツマタ利用を加え、仁淀川の谷口にある旧伊野町(現、いの町)を中心に全国屈指の和紙産地である。手漉きを基盤に、明治末~大正期、さらには1960年代に機械漉き、加工紙などが発展した。このほかの地場産業として土佐刃物、酒造業がある。土佐和紙・土佐打刃物は国の伝統的工芸品に指定されている。生産用機械は第二次世界大戦後、農業の機械化に伴って高知平野農村部に立地した農機具工業に特色がみられる。近代工場誘致は少なく、昭和10年代の余剰電力や農村労働力にひかれて立地した紡績、電気化学、製鋼以外は、第二次世界大戦後の家電、セメント工場など若干の例があるにすぎない。1983年の高知空港のジェット化に伴い、ようやく臨空港型企業が立地し、電子部品の製造業出荷額の増加がみられる。これらの工業は高知市を中心に、南国市から須崎市にかけての県央部に集中立地している。鉱業は豊富な石灰岩採掘が盛んで、移出も多い。
[大脇保彦]
県域の大部分を占める四国山地は、古来、土佐国への交通の大きな阻害条件となってきた。古代の官道南海道も、淡路(あわじ)島から阿波へ渡り、讃岐(さぬき)、伊予と四国山地を横断したのち土佐国府(南国市)へ至った。のち、阿波から南下して土佐へ入る道や、伊予東部から四国山地を越えて丹治(たじ)川(立川(たじかわ)川)沿いに土佐へ入る道が開けた。また、『土佐日記』で知られるように海路も利用された。近世の参勤交代路も急峻(きゅうしゅん)な立川越えのほか、土佐湾沿岸から野根山越えで阿波との国境の甲浦(かんのうら)へ出る道筋を併用した。高知市と高松市、松山市を結ぶ四国山地横断の道路の建設は1886年(明治19)に始まり、現在、国道32号、33号にほぼ継承されるほか、土佐湾沿いの国道55号、56号も主要幹線である。高速道の四国横断自動車道では、高松―川之江間(高松自動車道)に続き、1987年(昭和62)に南国―大豊間が開通し、さらに1992年(平成4)に川之江まで延伸(高知自動車道)した。これによって、これまで隔てられていた太平洋側と瀬戸内側とが高速道で結ばれた。さらに1998年には高知市・いの町、2002年には須崎市まで到達した。国鉄(現、JR)は、1924年(大正13)須崎―高知間が開通、翌年土佐山田までが延長されたが、土讃(どさん)線の全通は1935年(昭和10)のことである。南西部に中村線(現、土佐くろしお鉄道中村線)、予土線が開通したのは1970年代で、1997年にようやく西南端の宿毛(すくも)市まで鉄道が到達した。2002年(平成14)には土佐くろしお鉄道阿佐線(ごめん・なはり線)が開通した。また、東洋町には徳島から阿佐海岸鉄道が延びていたが、2020年(令和2)に運行を終了。翌2021年にデュアルモードビークル(道路上、鉄道軌道上をともに走行できる車両)に転換されている。電車は、1904年(明治37)に高知市に敷設が始められ、現在も全国で数少ない路面電車として、高知駅―桟橋(さんばし)間、後免(ごめん)―伊野間を結ぶ。海上航路は、かつては県南西部の沿岸航路も重要であった。その後はフェリーが、高知港・甲浦港・あしずり港と阪神間、高知港と東京間に就航したが、前者は2005年、後者は2001年に廃止となった。また宿毛―佐伯(大分県)間にフェリーが就航していたが、2018年より運行休止となっている。
1954年高知空港(高知龍馬空港)が開かれ、大阪、東京、福岡、名古屋などと結ばれている。
[大脇保彦]
室町時代、弘岡(ひろおか)城主吉良宣経(きらのぶつね)は周防(すおう)(山口県)の大内氏に仕えていた儒者南村梅軒(みなみむらばいけん)を迎え、朱子学などを講義させたが、これが土佐南学の基となったと伝える。歴史の項でも述べたように、近世には谷時中(じちゅう)により野中兼山、小倉三省(おぐらさんせい)に伝えられ、南学は実学として藩政にも用いられた。さらに谷秦山(しんざん)とその子孫により土佐藩学の中心となり、藩士のみならず、郷士、庄屋など土佐国内全域に影響を与えた。1759年(宝暦9)8代藩主山内豊敷(とよのぶ)のとき藩校教授館(こうじゅかん)が設けられ、南学を根本とする講義が行われた。
高等教育機関としては、1923年(大正12)、旧制高知高校が創立。2018年(平成30)現在、国立の高知大学(人文社会科学・理工・教育・農林海洋科学・医学・地域協働の6学部)、高知県立大学、高知職業能力開発短期大学校、公立高知工科大学がある。短期大学には、県立の高知短期大学、私立の高知学園短期大学がある。1976年高知医科大学が設置されたが、2003年(平成15)10月に高知大学に統合された。
高知県での最初の新聞は、1873年(明治6)発行の『高知新聞』であるが、まもなく廃刊となった。1880年、同名の『高知新聞』が刊行されたが、編集主幹は植木枝盛(えもり)であった。現在、県内唯一の朝夕刊紙『高知新聞』は1904年(明治37)創刊で、2017年の朝刊発行部数は約17万。放送機関としては、日本放送協会(NHK)、高知放送(RKC)、テレビ高知(KUTV)、高知さんさんテレビ(KSS)、エフエム高知(Hi-six)などがある。
[大脇保彦]
かつて四国山地の山里では焼畑農業を主とし、ミツマタ栽培や養蚕を生業としてきた。中世の林業は人跡未踏の原生林に展開されたとみてよく、石鎚山(いしづちさん)や剣山(つるぎさん)などの山岳信仰が素朴に生きていたであろう。本格的な開発がなされるのは、土佐藩が積極的な林業施策を打ち出した近世中期からで、そのころから土佐の林業民俗文化は多様化してゆく。開発は流材による搬出法を基本としたため、奈半利(なはり)川、物部(ものべ)川、吉野川、四万十(しまんと)川上流域で盛んであった。その伐木法、運材法などは信州(長野県)や紀州(和歌山県)の先進林業地方からの杣(そま)や技術の積極的な移入によるものであり、当時の土佐人には驚異的な林業文化であった。流材に伴って各河川沿いに水神信仰と並んで金毘羅(こんぴら)信仰も顕著なものとなってくる。高知県の山地文化を象徴するものとして「土佐の神楽(かぐら)」(国の重要無形民俗文化財)がある。これは東は安芸(あき)郡から西は幡多(はた)郡にかけての四国山地沿いの里に伝承され、いまも秋祭に奉納されている。四国の山岳宗教を基盤に民俗芸能化し、陰陽道(おんみょうどう)、修験道(しゅげんどう)などのおもかげを神楽舞の所作にみることができ、その詞章には荒神鎮めの信仰が濃い。狩猟も山の民の生業の一つであったが、とくに熊猟については熊野信仰、諏訪(すわ)信仰のほか、山の神を助けて山の獲物を授けられるようになったとする西山猟師伝承(にしやまりょうしでんしょう)が、物部川上流域に濃密であることは注目されなければならない。山と海とを結んで塩をはじめとする日常生活物資を運んだのは牛よりも馬が多く、それが馬頭観音信仰を流布し、路傍にはいまも多くの馬頭観音像がみられる。
県中部および東部の海岸には砂浜が比較的多く、地引網を中心にした漁業を行う。畑作兼業が多く、また漁業習俗も発達していない。これに対し、県西部や室戸地方の岩礁海岸部では、カツオ一本釣りや定置網を中心にした近海・遠海漁業を営み、漁民は幾日も海上で日を過ごすことなどから、海上信仰、漁労組織が多彩である。高知県の漁民に大きな影響を与えたのは、1907年(明治40)ノルウェーの銃殺捕鯨法の導入によって消滅した、網による捕鯨漁であろう。中世にも入り江に入ったクジラをとることはあったが、組織的な捕鯨漁が紀州から伝えられたのは1683年(天和3)であった。船を操る者だけでも300人余を必要としたという捕鯨漁は、現在の室戸市、土佐清水市を拠点とし、この地方の漁村には活気がみなぎった。
台風の直撃を受ける海岸部の民家には高い防風垣がみられ、とくに室戸地方では家をすっぽり隠すほどの石垣塀が巡らされている。県下に石灰山地が多いことから、漆食(しっくい)の白壁の倉や民家が多い。多雨のため他県に比して軒丈も低くつくられ、土蔵に水切瓦の使用がみられる。
高知平野は米の二期作地帯として知られるが、平野部には飼草が乏しいので牛馬の飼育ができず、田植時期だけ山間部から牛を借りてくる風がみられた。また、農繁期にも近郊の山村から多くの労働力を求めていた。稲作儀礼には田の神祭りや虫送りなどの行事が県下全域にみられる。稲作の予祝行事を芸能化したものに、室戸市吉良川町の御田八幡宮(おんだはちまんぐう)の御田祭(国の重要無形民俗文化財)がある。神迎え、田打ちから刈り入れまでを12演目で構成し、各演目の合間には狂言が入る。なかでも酒絞りの演目は、子授け信仰を伴うものとして知られている。
遍路信仰は高知県だけの特色ではないが、札所のない高岡郡北部から幡多郡北部の山間部では弘法(こうぼう)大師を祀(まつ)る吹き抜けの茶堂(ちゃどう)とよぶ建造物が各集落にあって、春秋には道行く人たちへの接待があり、信仰心の厚さをみせている。またこの茶堂を中心に盆の先祖祭りや施餓鬼(せがき)供養が営まれる。茶堂の分布する地域は、経済的にも宗教的にも愛媛県宇和地方の影響下にあり、宇和文化圏の及ぶ地域として高知県では特異な生活文化を形成している。幡多郡南部、宿毛(すくも)市、四万十市、土佐清水市などは、南下した宇和文化と海岸沿いに西進してきた高知平野の文化とが錯綜(さくそう)した地域で、民俗文化史的にまた異なった様相を示している。
高知県の生活文化の流れは、やはり京阪神から伝播(でんぱ)したものが主流で、その伝播路も四国山地を越えてきたものと海岸沿いにきたものとがある。四国山地を越えてきたものは、さらに四国山地を尾根伝いに伝播したものと、山からしだいに野に下っていったものとがある。たとえば土佐を代表する民俗芸能の太刀踊り(たちおどり)も、もとは盆の芸能で、香川、徳島県では雨乞(ご)いや祖霊供養として踊られる。これが高知県に入ると、山間部では盆の太鼓踊りに変容し、野に下ると明るい風土と陽気な県民性が秋の祭礼芸能に変容せしめ、勇壮な太刀さばきをみせるようになる。宇和文化圏の影響を受けている県北西部では跳び念仏と交錯して多様化している。
[高木啓夫]
政治、文化の中心地から遠隔地にあるため文化遺産は多くない。国指定重要文化財のうち、四国最古の建造物である大豊町豊楽寺(ぶらくじ)薬師堂(1151年ごろ)と日高村小村神社(おむらじんじゃ)の金銅荘環頭大刀拵(こんどうそうかんとうたちこしらえ)・大刀身(古墳時代)は国宝。建造物には高知城、土佐神社本殿・拝殿など、竹林寺(ちくりんじ)本堂、朝倉神社本殿、関川家住宅(以上高知市)、国分寺金堂(南国市)、鳴無(おとなし)神社(須崎市)社殿、旧立川番所書院(大豊町)など、彫刻に運慶作の薬師如来像、湛慶(たんけい)作の毘沙門天(びしゃもんてん)像(高知市雪蹊寺)などがある。
国史跡には、高知城跡(高知市)、土佐国分寺跡(南国市)、比江廃寺塔跡(南国市)、宿毛貝塚(宿毛市)、不動ガ岩屋洞窟(どうくつ)(佐川町)などがある。天然記念物のうち、「杉の大スギ」(大豊町)、ミカドアゲハとその生息地(高知市)や、土佐のオナガドリ(地域を定めず)などは特別天然記念物に指定されている。
[大脇保彦]
「大師伝説」が弘法大師の遍歴の跡を伝えるのは四国全域にあるが、高知県には大師が足摺岬からカメにのって土佐湾を渡ったという豪壮な伝説がある。室戸岬の七不思議は大師の霊験を伝えたもの。貴種流離譚(たん)もいくつかある。尊良親王(たかながしんのう)は元弘(げんこう)の変後、土佐へ配流されたが、後を追った妃(きさき)の船が難破し、妃の小袖(こそで)だけが幡多(はた)郡黒潮町の月見ヶ浜に漂着した。その後、浜では小袖に似た模様の貝がとれるようになったという。四万十市大屋敷の井森社は土御門(つちみかど)上皇の皇子の妃「千代鶴姫(ちよづるひめ)」を祀(まつ)る。皇子を慕ってきた妃がこの地でオオカミに襲われたと伝える。壇ノ浦(だんのうら)から徳島県祖谷山(いややま)へ逃れたという安徳(あんとく)帝が、祖谷山から土佐の高岡郡横倉山へ行在所(あんざいしょ)を移し、23歳で世を去ったといい、横倉山は御陵伝説地になっている。同郡越知(おち)町千立野(せんだつの)に「耳なし地蔵」の伝説がある。その由来は「耳なし芳一(ほういち)」と同工のもので、琵琶(びわ)法師が横倉山の平家の亡霊に耳を切られたというもの。平家伝説は高知市の山間部、鏡(かがみ)地区・同市土佐山地区、同所に続く七ツ淵などに多い。いの町の「平家平(へいけだいら)」では、正月、盆の16日に落人(おちゅうど)の怨霊(おんりょう)がさまようといって、山入りを堅く禁じている。長者伝説では四万十市中鴨川(なかかもがわ)の「炭の倉さま」が有名であるが、筋立ては大分県の蓮城寺(れんじょうじ)観音堂の黄金発見の縁起(えんぎ)「炭焼小五郎(すみやきこごろう)」と同じである。伝説伝播者が運んで諸国に流布したものとみられる。四国山地を流れる吉野川、仁淀川、物部川、四万十川などのつくる峡谷の淵(ふち)には、ヘビにまつわる伝説が数多くある。また、池や淵の底に乙女(おとめ)がいて機(はた)を織るという「機織淵」の伝説もある。これも全国的に広く分布する伝説であるが、香美市物部町では、機織りの道具を頭にのせた物売りの乙女が、蔓橋(つるばし)を渡ろうとして誤って川に落ち、それから橋の下で機を織る音が聞こえるようになったという。「七人みさき」も各地にある伝説で、非業の死を遂げた7人の亡魂に出会うと高熱を発して死に至るという。土佐郡、高岡郡、幡多郡、安芸郡などの山間の塚や祠(ほこら)にまつわる伝説である。
[武田静澄]
『『高知県史』全10冊(1968~1977・高知県)』▽『山本大著『高知県の歴史』(1969・山川出版社)』▽『坂本正夫・高木啓夫著『日本の民俗39 高知』(1972・第一法規出版)』▽『『日本歴史地名大系40 高知県の地名』(1983・平凡社)』▽『『角川日本地名大辞典39 高知県』(1986・角川書店)』▽『高知県高等学校教育研究会編『新版 高知県の歴史散歩』(2006・山川出版社)』
高知県中央部、浦戸(うらど)湾奥に位置する市で、県庁所在地。市域の中央東寄りを南北に浦戸湾が湾入し、東から国分(こくぶ)川、西から鏡(かがみ)川が流入し、高知市街地は鏡川によって形成された沖積低地に立地する。1889年(明治22)市制施行。1917年(大正6)江ノ口町、1925年旭(あさひ)村、1926年下知(しもじ)町と潮江(うしおえ)村、1927年(昭和2)小高坂(こだかさ)村、1935年初月(みかづき)、秦(はだ)の2村、1942年長浜町と朝倉、鴨田(かもだ)、一宮(いっく)、布師田(ぬのしだ)、高須、五台山、三里(みさと)、浦戸、御畳瀬(みませ)の9村、1972年(昭和47)大津、介良(けら)の2村、1988年南国(なんこく)市の一部を編入。2005年(平成17)鏡村、土佐山村(とさやまむら)を、2008年春野町(はるのちょう)を編入。1998年には中核市に移行している。面積309.00平方キロメートル、人口32万6545(2020)。
交通機関は、1935年の土讃(どさん)線全通までは海上交通が主で、その後鉄道の比重が増した。JR土讃線、とさでん交通、国道32号、33号、55号、56号、194号、195号、高知東部自動車道が通じ、高知自動車道の高知インターチェンジがある。高知港と東京、大阪との間に大型フェリーが就航していたが、ともに廃止された。隣接する南国市にある高知空港が近い。市内には1904年に開通した通称「とでん」(現、とさでん交通軌道線)の伊野線と桟橋線、後免線がはりまや橋で交差し、市民の足として利用されているほか、バス路線が県内外から集中する。
[正木久仁]
古浦戸湾は現在よりも内陸に広がっており、934年(承平4)土佐守(かみ)紀貫之(きのつらゆき)が帰任のときに舟出した大津泊(おおつのとまり)は市域東部の大津舟戸付近に比定されており、現在陸地化している五台山をはじめ、洞(ほら)ヶ島、比島、竹島、葛(かづら)島、田辺島などの地は湾内に浮かぶ小島であったといわれる。戦国時代ころから河川の堆積(たいせき)作用と干拓により陸化が進み、1588年(天正16)長宗我部元親(ちょうそがべもとちか)が大高坂(おおたかさ)に築城したが、1592年(文禄1)ごろには湾口の浦戸城に移った。1601年(慶長6)関ヶ原の戦い後、土佐国主になった山内一豊(やまうちかずとよ)はいったん浦戸城に入ったが、すぐに大高坂に移り城下町建設に着手した。城下は河内(こうち)、河中(こうち)と記されたが、水害が多いため、藩主の要請で竹林(ちくりん)寺の空鏡(くうきょう)が同音の高智(こうち)(のち高知)に改めた。城下町は鏡川と江の口川に挟まれた沖積地に立地し、以後土佐藩山内氏の城下として明治まで続いた。城郭周辺の郭中に武家屋敷を設け、その東西の下(しも)町、上(かみ)町を町屋地区とした。城下町は東西に長く、鏡川南岸や浦戸湾東岸一帯は低湿地であり、近代以降の交通体系が東西方向をとったこともあって、南北への市街地化は遅れた。1945年(昭和20)7月の大空襲、1946年の昭和南海地震により、市街地の大部分が被害を受けた。近年、鏡川以南や東部でも宅地化が進んだが、同時に災害の危険も増大した。
[正木久仁]
高知県の行政、経済、交通の中心地であり、第三次産業人口が多い。卸売・小売業とも活発で、県下全域を商圏にする勢いをみせる。はりまや橋から本町にかけてが中心市街で、帯屋(おびや)町、京町の商店街のほか銀行、企業が集中する。高知城の南部には官公庁街がある。工業はかならずしも盛んであるとはいえないが、明治期に市街地西部の旭村に製紙、製糸業がおこり、南の潮江にはセメント工業、昭和に入って重化学工業が立地した。1960年(昭和35)からの高知港開発整備計画により湾東部が埋め立てられ、造船、木材工業が立地した。近年は、食料品、鉄鋼業、製紙業、生産用機械器具、輸送用機械器具、はん用機械器具などが中心(2014)。
平野部では、温暖多雨な立地条件を生かし、水稲、果樹、野菜、花卉(かき)栽培などが盛んであり、全国へ早期出荷を行っている。三里、長浜の沿岸部では砂地での施設園芸が行われる。フルーツトマト、グロリオサ、長浜のスイカ、五台山のイチゴ、朝倉の新高(にいたか)ナシなどが特産。山間部の農林業では、用材、木炭、有機栽培によるウメ、ユズ、ショウガ、タケノコなどを産する。近年は通勤兼業が増加している。
[正木久仁]
土佐藩の城下町として長く栄え、文化財が多く残る。幕末・維新期には坂本龍馬(さかもとりょうま)、武市瑞山(たけちずいざん)(半平太(はんぺいた))をはじめ数多くの志士を輩出し、その後の自由民権運動の中心となった地で、立志社をはじめ多くの結社が設立された。
かつお節、土佐和紙(伝統的工芸品に指定)、サンゴ細工、木工品などの名産品や、郷土色の濃い皿鉢(さわち)料理、日曜市、8月の「よさこい祭」は大きな観光資源となっている。陶磁器の尾戸(おど)焼、金魚の土佐金魚、土佐闘犬は有名。主要観光地は、桂浜(かつらはま)、高知城(城跡は国史跡、天守などは重要文化財)、五台山であり、四国八十八か所札所の第30番善楽(ぜんらく)寺、第31番竹林寺(庭園は国指定名勝)、第33番雪蹊(せっけい)寺、34番種間(たねま)寺をはじめ、掛川神社、吸江(ぎゅうこう)寺、宗安寺、安楽寺などの古社寺も多い。国指定重要文化財として、竹林寺(本堂、木造文殊菩薩(もんじゅぼさつ)および侍者像ほか仏像多数)、土佐神社(本殿ほか)、朝倉神社本殿、旧山内家下屋敷長屋、旧関川家住宅、雪蹊寺の湛慶(たんけい)作木造毘沙門天(びしゃもんてん)および脇侍(わきじ)立像、秦(はだ)神社の絹本著色長宗我部元親(ちょうそがべもとちか)像、龍乗院の絹本著色普賢延命(ふげんえんめい)像などがある。「高知市のミカドアゲハおよびその生息地」は国指定の特別天然記念物。北部の工石(くいし)山(1177メートル)にはヒメシャラ、ブナ、ヒノキやアケボノツツジ、シャクナゲが自生し、工石山陣ヶ森(じんがもり)県立自然公園区域となっている。市街北方の丘陵地は北山県立自然公園、南方の鷲尾山一帯の丘陵地は鷲尾山県立自然公園に指定される。鏡川支流の山間部には平家の落人伝説が残る。高知県立牧野(まきの)植物園は、植物学者牧野富太郎(とみたろう)の業績を顕彰する研究施設であり、博士ゆかりの植物を中心に栽培・展示し、記念館もつくられている。
[正木久仁]
『『高知市史』全2冊(1958、1971・高知市)』▽『『図録高知市史――考古~幕末・維新篇』(1989・高知市)』▽『広谷喜十郎著『高知市歴史散歩』(2003・高知市)』
基本情報
面積=7105.16km2(全国18位)
人口(2010)=76万4456人(全国45位)
人口密度(2010)=107.6人/km2(全国43位)
市町村(2011.10)=11市17町6村
県庁所在地=高知市(人口=34万3393人)
県花=ヤマモモ
県木=魚梁瀬スギ
県鳥=ヤイロチョウ
四国の南半部を占め,四国山地を境に愛媛・徳島両県に接し,太平洋に臨む県。室戸岬と足摺岬が弓形の土佐湾を抱き,県域は北東~南西方向に長い。東の東洋町甲浦(かんのうら)から西の宿毛(すくも)市までは,直線距離で約170km,道路里程では約270kmに達する。土佐湾沿岸から四国山地中の県境まで,ほぼ30~40kmの幅がある。
現在の高知県は,かつての土佐国全域にあたり,明治維新まで土佐藩(高知藩)24万石の藩政が続いた。1871年(明治4)廃藩置県に伴い高知藩は高知県に改められた。ついで74年愛媛県に属していた沖ノ島,鵜来(うぐる)島,姫島の3島(現,宿毛市)が高知県に移管された。76年高知県に名東(みようどう)県(旧,阿波国)が編入されたが,80年再び分離され,名東県は徳島県となり,現在の高知県域が確定した。
不動ガ岩屋洞穴遺跡(高岡郡佐川町)は微隆起線文土器,石槍,有舌尖頭器,矢柄(やがら)研磨器など縄文草創期の遺物と,押型文土器,打製石鏃,掻器など早期の遺物とを出土し,本県における縄文時代最初期の様相を示している。これに対し,縄文後半期の姿をよく伝えるのが,宿毛(すくも)貝塚(宿毛市)である。東西二つの貝塚からなり,後期の宿毛式土器をはじめ,各種石器,玦状(けつじよう)耳飾,骨製笄(こうがい),鹿角製品などを出土するほか,伸展葬の女性人骨も発見されている。入田(にゆうた)遺跡(四万十市)は四万十川の自然堤防上に位置する遺跡であるが,縄文晩期の突帯文土器(入田B式土器)と弥生前期初頭の重弧文系土器(入田Ⅰ式土器)とが伴出するばかりでなく,これらに伴って粗雑な打製撥形石斧や石庖丁が出土し,さらに入田B式の底部に籾痕もみられて,この地における縄文文化から弥生文化への移行の様子がわかる重要な遺跡となっている。この後,弥生時代の人びとは現在土佐の穀倉地帯ともいわれる香長(かちよう)平野を中心に河川流域に定住し,水稲耕作にもとづく生活を展開した。西見当(にしけんとう)遺跡(南国市)などがその代表的遺跡である。このほか四国では山中の洞穴で弥生文化の遺物が発見される例があり,狩猟のためとか祭祀的なものであるという説がある。なかでも竜河洞(りゆうがどう)遺跡(香美市)は石灰華につつまれた弥生土器が残っていることで知られる。土器は第Ⅳ様式に比定される凹線文系の竜河洞Ⅰ式が主で,鉄鏃,石錘,貝輪,鹿角および貝製垂飾などが伴出している。同様の立地の遺跡に鷹ノ巣遺跡(吾川郡いの町)や鬼ガ岩屋洞穴(香南市)などがある。カリヤ遺跡(南国市)は,1899年,地下30cmのところから広形銅矛が5本,あたかも木箱に入れてあったような状態で出土したことで知られる。
古墳は土佐の中部以東にかけて多く分布するが,大和や吉備など先進地域にはくらぶべくもない。土佐で唯一の前方後円墳とされる曾我山(そがやま)古墳(宿毛市)は,また土佐で最古,5世紀代の古墳である。このほかほとんどが6~7世紀代の横穴式石室墳や小円墳である。なかでも舟岩古墳群(南国市)などが正式調査を受け,重要である。
歴史時代では土佐国衙跡(南国市)や,高知空港拡張工事に伴う調査で室町時代末ごろの中世集落址として最近注目を集めている田村遺跡群(南国市)などがある。
→土佐国
執筆者:坂本 一登
沖合を流れる黒潮の影響で,冬季でも土佐湾の海水温が15℃前後あり,湾岸一帯にはウバメガシ,ガジュマル,ツバキなどの暖温帯自然林景観がみられる。北には,屛風のような四国山地の山なみが連なって北西風を防ぎ,晴天が多く,南東部の室戸岬付近は無霜地で,土佐湾岸一帯ではほとんど積雪をみない。一方,梅雨期と秋の台風期には,県域の大部分を占める四国山地を中心に大量の降雨がある。高知市の年降水量2666mmは日本では多雨地に属するが,とくに山間部では,東部の魚梁瀬(やなせ)をはじめ3000mmをこす所が多い。四国山地は,瓶ヶ森(かめがもり)(1896m)をはじめ標高1500mをこえる峰が多く,ここから南へ中央構造線に並行して走る地質構造に関係して,東西方向に幾重にも山なみが並ぶ。中・下流が徳島県域に含まれる吉野川を除くと,四万十(しまんと)川,仁淀(によど)川,物部(ものべ)川,奈半利(なはり)川など多くの河川の全部または大部分の流域が県内の四国山地に含まれ,曲流峡谷を形成して豊かな水量を土佐湾に注いでいる。しかし低地は少なく,物部川,国分川,鏡川,仁淀川の各下流低地の総称である高知平野(最も広義)以外は,松田川下流に宿毛,四万十川下流に中村,新荘川下流に須崎,安芸(あき)川下流に安芸などの低地があるにすぎず,このような狭い低地に,古来漁・農村が集中して発達してきた。
海岸線は大部分が単調で,沈水性の屈曲に富む海岸は中央部の浦戸湾,浦ノ内湾,須崎湾,南西部の宿毛湾,東部の東洋町甲浦港などに限られ,これら湾内には古くから阪神や九州方面との交易・連絡港が立地した。また長い海岸線は漁業の発達に適し,近海カツオ漁業が盛んで,土佐清水,宇佐(土佐市),室戸などの漁港が著名であるが,近時は,室戸をはじめ土佐湾東部の漁港には遠洋マグロ船が多く,南太平洋をはじめインド洋,大西洋まで出漁している。中世の対明貿易の南海路にあたり,四万十川河口の下田港(現,四万十市)がその寄航地となった点や,1596年(慶長1)のスペイン船サン・フェリペ号浦戸漂着はじめ異国船の漂着,幕末の中浜万次郎の物語なども含めて,土佐湾が太平洋に大きく開いている地理的条件は,時代をこえて,土佐の性格にさまざまな影響を与えている。
一方,県域の大部分を占める四国山地の山間部は,中世以降傾斜地の焼畑による耕地化などで開発が進展した。温暖多雨な気候に恵まれて,山間部では近世以来林業が盛んで,黒尊(くろそん)山(四万十市),白髪(しらが)山(長岡郡),魚梁瀬(安芸郡)に代表されるように,杉,ヒノキなどの生産が藩の財政をささえてきた。現在も林野率83.7%(1990)は全国第1位で,西南日本有数の国有林をもち,地場産業として重要である。とくに,第2次大戦後,仁淀川,吉野川,物部川,奈半利川などの上流部に,早明浦(さめうら),大渡(おおど),永瀬,魚梁瀬などのダムが建設され,最近は豊富な降水を受ける四国の水がめとしても重視されている。一方,吉野川と並ぶ四国の大河四万十川は,開発があまり進められず,自然をよく残していることで知られる。
かつて著名であった土佐の水稲二期作は大正期以降,高知平野,安芸平野に普及し,全盛期の1935年前後には県下作付けの1割に達した。しかし,第2次大戦後しだいに衰退し,とくに稲作減反政策期の1970年代に急減して,現在は物部川下流の香長(かちよう)平野の一部にわずかに残るにすぎない。台風の害を避け,狭小な平野や零細な経営規模を克服するために,土佐では温暖期間や日照時間の長いことを利用して,労働力を集中的に投下し,単位耕地面積当りの生産性を高めるという農業を行ってきた。これは現在の県を代表する施設園芸農業にもあてはまり,県平均単位面積当りの生産所得は,全国的に最上位のグループに入っている。戦前すでに,高知・安芸両平野に海岸砂地利用の促成栽培がみられ,阪神地方へ出荷されていたが,戦後は,ビニルハウスの普及,京阪神大都市圏の形成と市場の確立,交通条件の整備に伴って,輸送園芸地域として急速に成長し,近時は平野内部や県西部への拡大も著しい。キュウリ,ナス,ピーマン,ショウガのほか,メロン,スイカなど作物も多様化し,早稲,二期稲(晩稲)などの稲作も含めて,促成,抑制,露地などの栽培が組み合わされた経営がみられる。園芸野菜は年産800億円(1995)をこえ,米の4倍余を占めている。ほかに室戸市の早生ビワ,東洋町のポンカン,土佐市,香南市の旧香我美町の土佐ブンタンなど,地方色豊かな果樹類も特産する。戦後まで焼畑農業のなごりがみられた山間部では,四万十川中・上流部のシイタケ,仁淀川中・上流部の茶,奈半利川流域のユズなどを村おこしに導入する傾向がある。
製造業出荷額は全国で沖縄県に次いで下から2番目(1995),就業人口中の第2次産業人口比も最下位グループに属し,工業は振るわない。その中で,四国山地の資源と結びついた近世以来の地場産業が多いことは特徴的である。木材加工のほか,四国山地を中心に産出する石灰石(年産1500万t程度)は移出もされるが,伝統的な石灰製造業や明治期以降発展した近代セメント工業も立地させている。土佐市,いの町の旧伊野町を中心とする製紙業は,山間部のコウゾ,ミツマタを原料として,近世から昭和初頭まで藩や県の経済を支えた和紙業が発展し,大正期以降とくに第2次大戦後,機械漉(す)き製紙に転じた地場産業として知られる。このほか,浦戸湾岸の造船業,南国市から香美市の旧土佐山田町にかけての土佐打刃物(鎌,林業用なた,包丁など)も藩政期以来の伝統をもつ地場産業である。昭和10年代に労働力や電力にひかれて立地した紡績,電気化学,鉄鋼業や,戦後に農村とその労働力を背景に立地した農機具工業などの近代工業もあるが,一般的にその立地集積は進展していない。
県域は自然条件,歴史的背景,周辺とのかかわりから次の4地域に分けられる。
(1)高知平野とその周辺 高知市のほか南国,土佐,須崎,香南の4市と周辺の町村を含む。高知平野が中央に展開し,古代の国府,中世の細川氏(守護代)居館,長宗我部氏の岡豊(おこう)城,近世の高知城下町が立地し,低地には広く条里遺構が残る。台地や浦戸湾岸低地の新田開発地が多く,古来,土佐の政治,経済,文化の中心地となってきた。須崎(港町),佐川(小城下町),高岡・後免(ごめん)・土佐山田(市町),伊野(製紙)などの中心地は,近世以来の在町である。水稲二期作や施設園芸は主としてこの地域に展開し,工業も県出荷額の8割が生産されている。高知平野とその周辺を含めたこの地域には県人口の6割が集中するため,人口密度は県平均の約4倍に達し,なかでも高知市に県人口の4割が集中している。1935年の土讃本線全通に先立ち,明治末に後免(現,南国市)~伊野(現,いの町)間の土佐電鉄,大正末に須崎~土佐山田間の国鉄線(現,JR土讃線の一部)が通じ,交通不便の県内では,例外的に近代交通機関が発達した地域で,ほぼ全域が高知市への通勤圏である。土讃線,国道,高速道などで四国各地と結ばれるほか,高知港,空港(南国市)により阪神,東京,中京,九州,札幌と結ばれる。桂浜,五台山,竜河洞などの観光拠点がある。
(2)四国山地中央山間部 四国山地中央部,四万十,仁淀,吉野,物部など各河川の上流地域で,長岡郡の全域と,香美市および土佐,吾川(あがわ),高岡各郡の山間部町村からなる。林業を主とする山村で,過疎化が著しい。檮原(ゆすはら),越知(おち),本山,大栃(おおどち)などの小中心地があり,かつては交通不便な地であったが,国道化など道路の整備によって須崎,高知,愛媛県の宇和島などと直接結ばれるようになった。カルスト地形の天狗高原をはじめ,1800m級の山岳,渓谷など景勝・保養地が多い。
(3)幡多(はた)地方 県南西部にあたり,四万十,宿毛,土佐清水の3市と,幡多郡全域および高岡郡の一部からなる。県中央部と幡多地方とは,窪川台地などの地形的な障壁で隔てられているため,古来,〈土佐の孤島〉的性格が強かった。しかし1970年国鉄中村線(現,土佐くろしお鉄道)が初めて通じ,国道56号線も整備されて,こうした意識もうすれている。15世紀後半,関白一条氏の下向以来〈小京都〉として発達した四万十市の旧中村市が,地域の中心をなす。そのほかカツオ漁業,足摺観光基地の土佐清水市,近世の小城下町宿毛市などの中心地があり,片島港から大分県佐伯市へはフェリーの便がある。足摺岬,竜串,大堂(おおどう)海岸,沖ノ島などは,足摺宇和海国立公園に属する景勝地である。
(4)安芸地方 県東部,安芸,室戸の2市と安芸郡からなり,ほぼ室戸半島全域にあたる。安芸平野以外は大部分が山地で,奈半利川上流域の魚梁瀬の国有林をはじめ,古来林業地として知られ,河口の田野町,奈半利町はその集散地であった。安芸平野を中心に沿岸低地は施設園芸農業が盛んで,とくに地域西端の芸西村は県下一の園芸農家率を示す。マグロの遠洋漁業地の室戸市をはじめ漁村が多い。室戸岬付近の標式的海岸段丘景観は有名で,岬一帯は室戸阿南海岸国定公園に含まれている。
執筆者:大脇 保彦
高知県中央部の市で県庁所在都市。2005年1月旧高知市が鏡(かがみ)村と土佐山(とさやま)村を,さらに08年1月春野(はるの)町を編入して成立した。人口34万3393(2010)。
高知市北西部の旧村。旧土佐郡所属。人口1644(2000)。南は旧高知市に接する。北部山地から柿ノ又川と吉原川が南流して,南東部の川口で鏡川に合流する。役場所在地の小浜は古くから林産物の集散地として栄えた。かつては養蚕の盛んな地域であったが,現在は米のほかショウガ,ミョウガ,たけのこ,茶,梅,栗,ミカンなどを産し,特にショウガは全国に出荷されている。近年旧高知市への通勤人口が増加し,雪光山,樽の滝,平家の滝などは高知市民のハイキング地となっている。
執筆者:萩原 毅
高知市中東部の旧市で,県庁所在都市。土佐湾奥にひろがる高知平野に位置する。人口33万0654(2000)。市の中心部は浦戸湾奥の鏡川と,かつては大川であった江ノ口川にはさまれた沖積低地に位置し,近世の土佐藩の城下町から発達した。1889年旧城下町の範囲を踏襲して市制。1942年浦戸湾岸部を含む市域の拡大により旧市域がほぼ形成された。第2次大戦で,市街地の大部分を焼失したが,1955年以降の県人口の減少期にも,高知市への人口集中が進み,市街地の拡大が進行した。現在,住宅地化は鏡川沖積低地のみならず,浦戸湾岸一帯,国分川以東の高須,大津,介良(けら)地区にも及ぶ。都心部は高知城(現,県立公園)を中心に,県庁,市役所をはじめとする官庁,文教地区が隣接し,この東に中心商店街が連なる。明治末までに開通した土佐電鉄が,桟橋(高知市),伊野(いの町),後免(ごめん)(南国市)の3方面へ通じ,現在まで都市交通機関として機能している。大正末に,現JR土讃線が須崎から通じて高知駅が設置され,土佐電鉄も高知駅と接続するように延長された。播磨屋橋交差点付近の都心地区への通勤,通学,買物などの流入圏域は,高知平野一円,さらにその周辺に及び,県商業販売額の3/4は高知市が占めている。製造業は県出荷額の3割(1995)を高知市が占め,三里(みさと)地区を中心とする浦戸湾南部の造船,臨港地の潮江(うしおえ)地区にはセメント,電気化学,東郊大津地区の食品加工,下知(しもじ)地区には機械,金属などの各種企業がそれぞれ集積している。かつて製紙業などの盛んだった旭地区は,かつてパルプ廃液公害問題も生じ,衰退している。1935年全通した国鉄土讃本線(現,JR土讃線),国道32号,33号,55号,56号線で松山,高松,徳島,宇和島など四国主要都市と結ばれるほか,1998年には高知自動車道が高知市を経て伊野町(現,いの町)まで延伸された。高知港からは阪神方面へフェリー(2005年廃止)が通じる。南国市にある高知空港へは車で30分の距離にある。主要市街地は,0mを含む低地に立地するため,古来台風時の水害が多く,近年では1970年,76年に市街地の過半が冠水し,防災のための河川整備が進められた。市内には,眺望のよい高知城,五台山,筆山や浦戸湾頭の桂浜,種崎などの公園があり,市民の行楽地や観光拠点となっている。追手筋(おうてすじ)の日曜市は近世以来の街路市の伝統があり,市民や観光客でにぎわう。
執筆者:大脇 保彦
土佐国の城下町。古代の高坂郷,中世の大高坂郷に属するこの地は,南北両党が激突するなど早くから土佐中部の要衝として注目されていたが,浦戸湾奥の低湿地で治水に難があり,1588年(天正16)ころ大高坂城下町経営に着手した長宗我部元親も失敗,放棄して浦戸へ移転している。関ヶ原の戦後新領主となった山内一豊は,入国直後より大高坂の故地に新城を築き1603年(慶長8)浦戸より入城,以後高知は土佐一国を管する山内氏の城下町として幕末に至る。はじめ地形にちなんで河中と書かれたが,水害を忌み10年高智と改め,のちさらに高知となる。藩初は南北を鏡川と江ノ口川,東西は木屋橋,桝形の線で限る狭小な地域で,大高坂山上の城を取り囲む侍町と堀詰の水路をへだて東側に設けられた町人町からなり,後者にみられる山田,新市,種崎,浦戸,朝倉,弘岡,蓮池の諸町は,周辺の戦国期市場集落吸収の歴史を物語る。その後,東西にそれぞれ新しい町区(新町,上町)が発達,外側には足軽町が置かれるなど寛文年間(1661-73)までには城下町の基本形が成立する。1665年の記録によると,東西28町・南北8町の域内に2618戸(武家433戸,町人2185戸)の家数,町人町28ヵ町の人口1万7054のうち18種の職人1070人であった。
藩政後期に入ると,新町や上町では士庶雑居の傾向が強まり,各所に枝町も発達,家数は1804年(文化1)で4704戸を数え,使者屋橋~播磨屋橋間掘割りの南北を新都心とする経済都市化が進行する。上方から阿波または東予を経た往還は,北東の山田橋から城下に入り,松山,大洲,宇和島方面に通ずる道は町の西端思案橋より発し,浦戸湾の水は堀川をさかのぼり堀詰に至っていた。特権的な町座としては,唐人町の豆腐,新堀材木町の林産物,納屋堀の海産物などが知られ,酒,灯油その他多くの商品も座株の対象で,在郷商人の台頭する藩政後期には,1820年(文政3)の商物方限令など城下商業保護策がとられる。
町政は町奉行の支配下にあり,町方地下役として惣老,町庄屋,老および組頭がおかれ,惣老の地位はながく初期豪商櫃屋,播磨屋の独占するところであったが,寛政以降これに平野屋,辰巳屋,土種屋が加わっている。町方自治の議政機関たる町会所は,月3回の寄合を開き,1740年(元文5)以来京町にあり,1816年には10匁の町会所札を発行した。東西の町区と溝渠をへだててはさまれた中心部は郭中と呼ばれ,城の大手門および南口に近接した家老屋敷以下中老,馬廻,扈従組など上・中士層の屋敷域で,南北に与力町,本町筋西詰には桝形が設けられていた。災害では1698年(元禄11)の大火で城下全域が灰燼(かいじん)に帰し,1727年(享保12)には高知城も全焼した。幕末1853年(嘉永6)の町勢は,武家屋敷1102戸,町屋4069戸,寺院14であるが,明治維新により打撃をうけ一時的に衰退した。
執筆者:秋沢 繁
高知市北部の旧村。旧土佐郡所属。人口1323(2000)。鏡川上流域に位置し,村の南縁は旧高知市,東縁は南国市に接する。四方を山に囲まれ,中央部を西流する鏡川の流域にわずかに耕地が開ける。かつては木炭,和紙,繭を産したが,近年はミョウガをはじめ,ユズ,たけのこ,ショウガなどの生産が多い。東端の鏡川最上流に鍾乳洞の菖蒲(しようぶ)洞があり,すぐ近くの初平(しよへい)ガ岩屋とともに弥生時代の遺物が出土した。北の土佐町との境にそびえる工石(くいし)山(1177m)にはシャクナゲの群落もある。
高知市南部の旧町。旧吾川郡所属。人口1万5506(2005)。仁淀川河口東岸に位置し,北から東は旧高知市,西は土佐市に接し,南は土佐湾に面する。北に吉良ヶ峰(きらがみね)(250m)を負い,南に弘岡平野が開ける弘岡上に,戦国期土佐七雄の一人に数えられた吉良氏の居城吉良城(弘岡城)があった。吉良氏は周防山口から南村梅軒を迎えてその講学を聴いたといい,南学(海南朱子学)発祥の地と伝えられる。江戸初期,野中兼山によって仁淀川東岸に4里に及ぶ弘岡井筋が築かれ,高知城下への物資輸送と吾川郡南部の灌漑に大きく機能,弘岡平野を土佐屈指の農業地帯とした。気候にも恵まれて早くから施設園芸も盛んで,キュウリ,ナス,メロンなどを産し,西畑(さいばた)の河原スイカや秋山大根,弘岡カブなどがよく知られる。イグサや花卉栽培も行われる。秋山には四国八十八ヵ所34番札所の種間(たねま)寺がある。寺号は弘法大師が唐から持ち帰った穀物の種をここにまいたという故事によるという。
執筆者:萩原 毅
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
…土州。現在の高知県。土左国,都佐国とも記す。…
※「高知」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加