小立野村(読み)こだてのむら

日本歴史地名大系 「小立野村」の解説

小立野村
こだてのむら

[現在地名]豊田町小立野

天竜川下流左岸、上新屋かみあらや村の南に位置し、同川沿いに村の西側を東海道が通り、池田いけだ渡船場に向かう。嘉応三年(一一七一)二月日の池田庄立券状写(松尾大社文書)に「葛巻」とある。田五六段余・畠七町八段余の畠作中心の土地であった。字名に「くずまき」があり(東海道宿村大概帳)、当地に比定する説(静岡県史)がある。

「渥美大橋祖先系統沿革録」によると、今川氏家臣であった大橋家の先祖が掛川落城で帰農し、元亀―天正(一五七〇―九二)の初め天竜川荒原を開墾したという。天正一七年七月七日の徳川家七ヵ条定書写(御庫本古文書纂)宛先に「こたて野孫左衛門」とみえる。


小立野村
こだちのむら

[現在地名]修善寺町小立野

田方郡に属し、狩野かの川上流西岸に位置する村で、西は君沢くんたく郡修善寺村、東は同川を挟んで加殿かどの村。下田街道が通る。狩野立野たちのに含まれていたが分離し、当地以外は本村と称されたとみられる。北条氏所領役帳に松山衆狩野介の一族狩野藤八の所領として一〇貫文豆州「小立野」とみえる。文禄三年(一五九四)に代官彦坂元正による検地が行われ、検地帳に「豆州宝郡狩野庄小立野村」とあった(「小立野水帳書上」小川家文書)。元禄郷帳によると高九三石余。江戸時代初期は幕府領、宝永七年(一七一〇)相模荻野山中藩領となり幕末まで続く(韮山町史)


小立野村
おだつのむら

[現在地名]生坂村小立野

松本藩領麻績おみ組(のち川手かわて組)の一村で、さい川の右岸とその東方に連なる山の間にある。村全体は西面しており、土質は第三紀層の水成岩で粘土質である。下生野しもいくの村の南に接する。

寛永三年(一六二六)の検地竿受の村名によると、天正検地両郡郷村高附帳記載の日岐ひき郷三五三石八斗九升七合から高分れし、寛永一九年の信州松本御領分村々高附帳に六三石六斗とある。「信府統記」には「御朱印高四十八石」で、享保九年(一七二四)当時の石高は一三六石六斗三合とあり、田四石七斗九升二合、畑一一五石三斗七合。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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