小野川村(読み)おのがわむら

日本歴史地名大系 「小野川村」の解説

小野川村
おのがわむら

[現在地名]阿智村大字智里ちさと

現阿智村西部、北は清内路せいないじ(現清内路村)、東は昼神ひるがみ駒場こまば、南は波合なみあい(現浪合村)、西は美濃に接する。

網掛あみかけ峠の東側一帯が小野川とよばれる地区であったが、元文四年(一七三九)幕府代官大草太郎左衛門に「園原・本谷切開作付願出」を提出し、小野川村は野熊のぐま(恵那山)までの広い村になった(智里村誌)。江戸時代は、野熊山付六ヵ村(上中関かみなかぜき向関むこうぜき・昼神・備中原びつちゆうばら大鹿倉おおかぐら・小野川)の一つで「御榑木成」をもって上納した。文政一二年(一八二九)の文書(智里村誌)には、

<資料は省略されています>

とあり、榑木上納の村であることがわかる。

また中馬稼ぎも行われ、明和元年(一七六四)伊那・筑摩両郡村々中馬荷物・馬数等申渡書(北大手共有)には「小野川村 馬五拾六疋」とある。


小野川村
おのがわむら

[現在地名]昭和村小野川

喰丸くいまる村の北東一里三町、滝谷たきや川の源流部に位置し、古くから交通の要衝として開け、金山郷かねやまごう街道の駅所で、下坪しもつぼに制札場が置かれ(新編会津風土記)、喰丸峠に一里塚を築いた(昭和村史資料集)。端村大岐おおまた柳津やないづ(現柳津町)への道に沿い、本村の北一八町に位置する。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に「小野川 弐百九石一斗三升 御倉入」とある。慶長三年(一五九八)の物成帳(会津若松市史)では高一〇九石余、免二ツ七分、物成永楽四貫一七五文とある。


小野川村
おのがわむら

[現在地名]柳津町郷戸ごうど

北を只見ただみ川が北東流し、滝谷たきや(もとは小野川)が北流して只見川に合流する。周囲を山岳で囲まれ、東は山を越えて郷戸村端村古屋敷ふるやしき、南は中野なかの村。村内を伊北いほう街道が通り、村西に一里塚がある。もと今泉・中崎とともに三区に分れ住んでいたが、宝永年中(一七〇四―一一)小野川に集められたという(新編会津風土記)。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に小野川中野とあり、高一五四石余。寛文五年(一六六五)の「稲河領牛沢組郷村万改帳」では本田高一二九石余・新田高六斗余、免一ツ五分五厘余、家数一五、竈二四、男五一・女三九、馬三・牛一で、小物成として綿役・糠藁・足前・山役・松葉サライがあり、ほかに役漆木二千六四八本・役蝋五五貫六一八匁がある。


小野川村
おのがわむら

[現在地名]米沢市小野川町

簗沢やなざわ村の東、大樽おおたる川沿岸の河岸段丘上に立地。戦国時代には上長井のうち。天文二二年(一五五三)晴宗公采地下賜録によれば、小野川のうちで、大枝左衛門督が市川平三分を与えられ、「くほの在け」「田代さいけ」を預けられ、宮崎伊予が「かけの下在け」をそれぞれ与えられた。天正一五年(一五八七)の上長井段銭帳によれば小野川から大枝氏が三四〇文、立石源八が一〇〇文、小簗川新兵衛・宮崎三郎左衛門が合せて一二〇文をそれぞれ上納している。同一七年三月二七日から四月一日にかけ、伊達政宗は小簗川泥蟠・富塚近江らと小野川温泉で諸戦の策を練った(伊達天正日記)


小野川村
おのがわむら

[現在地名]窪川町七里ななさと 小野川

大小権現だいしようごんげん山に発する勝賀野しようがの川の下流に開けた村。「土佐州郡志」は「東限本在家山、西限影山村、南限本在家村界、北限中山界、縦二十町横五町」と記す。「仁井田郷談」(「南路志」所収)には「尾野川村」とあり、古くは仁井田にいだ本在家ほんざいけ郷一二村の一とされる。天正一七年(一五八九)の仁井田之郷地検帳に村名がみえ、地積一四町八反余、ヤシキ二三筆で土豪小野川氏の本拠地であるが、小野川分・東分・西分・佐竹分が混在

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android