少年文学(読み)しょうねんぶんがく

日本大百科全書(ニッポニカ) 「少年文学」の意味・わかりやすい解説

少年文学
しょうねんぶんがく

広義では、現在一般的に「児童文学」とよばれている子供を読者とした文学名称。これは博文館が1891年(明治24)に「少年文学叢書(そうしょ)」を刊行し始めたとき、巌谷小波(いわやさざなみ)がドイツ語のユーゲントシュリフトJugendschrift(英語のJuvenile Literature)の訳語として使ったのが日本では初めてである。子供の文学の歴史がもっとも長いイギリスでJuvenileという語が使われたもっとも早い例は、1780年のエリナー・フェンEleanor Fennの子供の本『Juvenile Correspondence』(『子供への手紙』)あたりらしい。その後は雑誌名、双書名ほか頻繁に使われるようになったが、文学全体の名称として使われた例はイギリスでは、エドワード・サーモンEdward Salmonの『Juvenile Literature as it is』(『児童文学の現状』)あたりがもっとも初期に属するようである。これは1888年であるから、小波はヨーロッパの名称をかなり早くに導入しているわけである。以後、明治期を通じて子供のための文学は「少年文学」が通称となる。やがてこの分野は大正期の雑誌『赤い鳥』以後は童話が一般的な呼び名に移っていくが、蘆谷蘆村(あしやろそん)は『教育的応用を主としたる童話の研究』(1913)で、また山内秋生(やまのうちしゅうせい)は『日本文学講座』(1928~34)で、ともに子供のための文学の総称として少年文学を採用している。このころすでに「児童文学」の名称も使われだしているから、どれを使うかは使用する者の概念規定によっていることが明らかである。昭和期には政治・社会意識の強い作品をよぶのに童話が不適切と主張する考えや童話の概念の狭さを意識する立場の人々により「児童文学」がしだいに一般的となった。第二次世界大戦後では、1953年(昭和28)に早大童話会が、童話形式が主流であった状況に反発して小説形式の子供の文学を主張して「少年文学の旗の下に」という一文を発表した例が目だっている。現在はほとんど「児童文学」が一般的であるが、「子供の文学」とよぶ人もいる。

 狭義で使われる場合は、ほぼ〈少年の〉文学と考えてよい。これと直接対応するのは当然〈少女の〉文学であり、一般に少女小説などとよばれる。少年をおもな読者とした作品には世界的にみて、いくつかの共通する特徴がある。その一つは雑誌ジャーナリズムの発展と結び付いていることである。イギリスでは19世紀から盛んになり、1840年代にはすでに少年向けの冒険物語、学校物語などが出た。ロバート・ルイス・スティーブンソンの『宝島』が『ヤング・フォーク』誌に連載されたこと、またフランスのジュール・ベルヌの『気球に乗って五週間』が『教育と娯楽』に連載されたあと1863年に本になったことも有名である。日本も同様で、たとえば少年小説の日本における始祖といわれる押川春浪(おしかわしゅんろう)の『海島冒険奇譚海底軍艦』(1900)の流れをくむ山中峯太郎(みねたろう)の『亜細亜(アジア)の曙(あけぼの)』は1931年(昭和6)から32年にかけて、また吉川(よしかわ)英治の『神州天馬侠(しんしゅうてんまきょう)』は1925年(大正14)から3年7か月の間、講談社の『少年倶楽部(くらぶ)』に連載された。内容的には、主人公が瞠目(どうもく)すべき数々の冒険に遭遇し、危険や困難に打ち勝つ過程で、勇気、不屈の意志、忍耐力、聡明(そうめい)、優れた体力などを発揮し、国家、家族、友人などへの献身と忠誠が伝えられる。そして多くの場合主人公の行動と結果が国策にかなっている。それゆえに大衆的、卑俗なといわれる面があるが、強い興味性、明快さ、大テーマ伝達など子供の文学の本質を保持している。

[神宮輝夫]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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