尾村(読み)かつらおむら

日本歴史地名大系 「尾村」の解説

尾村
かつらおむら

[現在地名]葛尾村葛尾

阿武隈高地の分水嶺東側に位置し、北西(一〇五七・六メートル)があり、そこから流れ出す葛尾川に沿った標高四〇〇―六〇〇メートルの高地にある。北は津島つしま(現浪江町)、東は昼曾根ひるそね(現同上)、南は落合おちあい村・野川のがわ村・上野川村。一般に「かつろう」と発音する。現在本宮もとみや町の高木たかぎ寺に蔵される大永二年(一五二二)一二月日銘の鰐口に「懸奉鰐口カツラウ通里権現大旦那カケ由助」とある。「大旦那カケ由助」は松本勘解由助親照のことで、勘解由助は信濃国葛尾城(現長野県坂城町)に関係する武士であったが、大永元年逃れて奥州に至り、相馬顕胤に仕え、相馬領境の落合村の奥地開発のため当地に住み、故郷をしのんで村名としたと伝える(松本家家譜伝)


尾村
つづらおむら

[現在地名]五色町鮎原葛尾あいはらつづらお

吉田よしだ村の北、米山こめやま村の東にある。中央に東北東から西南西に長く谷があり、谷の北には竜宝寺りゆうほうじ山、南にすずまつ山がある。延文六年(一三六一)とみられる二月二七日付の淡路国守護細川氏春書下(九条家文書)によると、「葛尾村」の所務・年貢の沙汰はこれ以前に櫟田という人物に任されていたが、その沙汰が滞り、百姓らが逃散する事件が起こっている。この書下は守護の知行する都志つし郷国衙方の給主の非法により、京都東福寺領である都志郷地頭方の百姓が逃散したことを問題にし、守護が給主の非法をとどめるよう守護代に命令したものであるから、「葛尾村」は東福寺領都志郷地頭方のうちにあったと考えられる。


尾村
くずおむら

[現在地名]名張市葛尾

名張川を隔てて家野いえの村の西に位置する。高塚たかつか(五〇七・七メートル)の山麓に集落が散在する。応和二年(九六二)八月二〇日の転経院牧地等去文案(東大寺文書)や康保元年(九六四)九月二五日の大和国都介郷刀禰等解案(同文書)みえ広瀬ひろせ牧の南限である「石屋并少野石村笠間河」は、笠間かさま川沿岸の岩屋いわや(現奈良県山添村)および葛尾村に比定できるから、少野石おのいし村がのちの葛尾村であったと思われる。


尾村
かつらおむら

面積:八四・二三平方キロ

双葉郡北西部にあり、北と東は浪江なみえ町、南は田村郡都路みやこじ村・船引ふねひき町、西は安達郡岩代いわしろ町に接する。北西端の阿武隈高地の最高峰(一〇五七・六メートル)から連なる支峰の間を葛尾川・野川のがわ川が流れる。標高三五〇―六〇〇メートルの高原に集落がある。信濃国葛尾城(現長野県坂城町)の関係者松本勘解由助が大永元年(一五二一)当地に住し村を開き、故郷をしのんで村名としたという。天文一八年(一五四九)以来葛尾村は田村郡に属し、近世三春藩領であった。


尾村
おむら

[現在地名]竹田市九重野くじゆうの

緩木ゆるぎ川上流の山間部にあり、北は久小野ひさおの村、東は高源寺こうげんじ村。正保郷帳では九重野郷に属し、田方九石余・畑方六五石余で、茅山有と注記される。弘化物成帳では九重野組のうち、村位は下、免三ツ九分、田九石余(一町一反余)・畑六六石余(一三町四反余)・屋敷二石余(二反余)で、開田はほとんどなく、開畑六斗余(一町三反余)がある。


尾村
ならおむら

[現在地名]静岡市楢尾

藁科わらしな川の支流崩野くずれの川の流域に位置し、南東は湯島ゆしま村。領主安西外あんざいそと新田と同じ。元禄郷帳では高六四石余。「駿河記」によると、多くが荒地で在高は二四石余程度で、家数は二五。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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