尾道町(読み)おのみちちよう

日本歴史地名大系 「尾道町」の解説

尾道町
おのみちちよう

御調みつぎ郡東南、南が尾道迫門(尾道水道)に面した港町。東・西・北三方を後地うしろじ村に囲まれる。もとは後地村とともに尾道村のうちであったが、町の成立で尾道村うらと称して独立、のち尾道町となる。後地村との境界は複雑。東から浄土寺じようどじ(瑠璃山)西国寺さいこくじ(摩尼山)千光寺せんこうじ(大宝山)に囲まれた海岸の平坦地に立地し、町分は東西一〇町余・南北五町余で、久保くぼ十四日とよひ土堂つちどうの三町からなり、町の中央部で北に長江新ながえしん町の町並が延びる。近世山陽道が東西に通じ、中央付近から北へ石見路(赤名越)が発する。町の前面はむかい島を防波堤とする瀬戸内海中部の屈指の良港であった。

仁安三年(一一六八)一〇月日付の備後国大田庄下司沙汰人等解并国司外題(高野山文書)によると、御調南条みつぎなんじよう(現御調郡御調町)に属した尾道村の五町(田三町・畠二町)大田おおた(現世羅郡)の倉敷地に設定、大田庄は文治二年(一一八六)に紀州高野山に寄進され、倉敷地尾道も高野山領となった。大田庄倉敷地として、瀬戸内海を東進してノ川河口まで年貢を運ぶ港の施設が急速に整った尾道村では、海岸部に市街地が形成され尾道浦として発展した。尾道の支配のために高野山は浄土寺曼荼羅まんだら(現海龍寺)を拠点としている。文永七年(一二七〇)一二月二一日付の備後国大田庄桑原方所務和与状(高野山文書)には「尾道浦津料魚貝事」という一項があり、津料徴収がなされるまでに成長している。乾元二年(一三〇三)五月一四日付の備後国大田庄新田所当年貢注文(高野山文書)によると、尾道浦は大田庄の大田方と桑原くわばら方に折半され、それぞれが二町五反三〇歩・分米五石一升余・銭一貫七〇〇文・延定八石五斗二升八合となっており、当初の五町の規模はあまり変更されていない。この頃の大田庄桑原方預所淵信は、尾道浦を拠点に単に大田庄倉敷運営だけでなく、地の利を生かして経済活動に進出し、西国の諸荘園の年貢輸送をも請負い、商業活動に従事、尾道浦の船頭楫取がその配下として活躍している(高野山文書)。また浄土寺などの大寺建立に力を注ぐ富裕な商人層の存在も認められる(浄土寺文書)。元応二年(一三二〇)、備後守護長井貞重は代官以下を使って尾道を襲撃、仏閣・社殿数ヵ所を含む民家一千余戸を焼払わせ、大船数十艘で略奪した雑物などを運び去った(高野山文書)。しかし町の復興は商人たちの経済力もあって早く、約二〇年後には有力な問丸も現れている(浄土寺文書)


尾道町
おのみちちよう

[現在地名]中区大手おおて町二丁目・なか町・ふくろ町・

塩屋しおや町の南に続く両側町で、東は中町、西は白神しらかみ四―六丁目、南は六丁目村。白神組に属した。「知新集」は天正一八年(一五九〇)来住して代々町年寄を勤めた岩国屋与三右衛門家の旧記として「尾道浦より大工・石工来り、居宅を造作し所々普請出来ける故尾道町と名つけし由」と記す。その後この辺りは西堂せいとう川の水運を利用して商業が盛んになったと察せられる。

元和五年広島城下絵図に「尾道町」として町間数二町一二間を記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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