(今谷明)
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南北朝時代の武将。時氏の第4子。丹波・和泉守護。時氏没後,兄の師義が家督を継ぐが,師義も死没して弟時義が惣領となる。1389年(元中6・康応1)時義が没すると,将軍足利義満は俗に〈六分一衆〉と呼ばれるほど強大化した山名氏の内部分裂を画策し,氏清が生前の時義と不和であったのを利用して,まず氏清,満幸(氏清の女婿)に命じて時義の子時煕(ときひろ),氏幸を討たせ,時煕の分国但馬を氏清に与えるなどした。時煕らは備後に逃れた。ところが1391年(元中8・明徳2)になると,義満は満幸が上皇領出雲横田荘を押領したことをとがめ,その出雲守護職を没収して京都から追放し,一方で赦免を嘆願していた時煕,氏幸を許した。氏清は,満幸が将軍義満は山名氏を滅ぼす計略であると説くのをいれて幕府に背き,分国の軍勢を率いて京都に攻め込むが,直轄軍などで強化された幕府軍に討滅された(明徳の乱)。その分国のうち本国但馬は時煕,伯耆は氏幸,要港堺の位置する和泉は大内義弘に与えられた。諡号(しごう)は宗鑑寺殿古鑑衡公。
執筆者:岸田 裕之
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南北朝時代の守護。父は山名氏隆盛の基を築いた時氏(ときうじ)。氏清は南朝勢力を討った功により和泉(いずみ)守護職を与えられ、丹波(たんば)守護職にも補され、六分一殿(ろくぶんのいちどの)山名氏の一翼を担った。1371年(建徳2・応安4)時氏の没後、山名氏の惣領(そうりょう)職は、師義(もろよし)、時義(ときよし)、時煕(ときひろ)と継承されたため、満幸(みつゆき)の不満が高まった。氏清は満幸を支援し、時煕・氏幸(うじゆき)と対立した。大守護勢力削減を意図した将軍足利義満(あしかがよしみつ)は、この内紛に介入し、氏清・満幸に時煕・氏幸を討たせた。氏清は丹後(たんご)守護職に、満幸は伯耆(ほうき)・隠岐(おき)の守護職に補された。しかし氏清は、仙洞料所(せんとうりょうしょ)の押領(おうりょう)などで義満の意に背いた満幸とともに、1391年(元中8・明徳2)義満に反して明徳(めいとく)の乱を起こし、12月30日内野(うちの)の合戦で大内義弘(おおうちよしひろ)らの幕軍と戦い、討ち死にした。
[田沼 睦]
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1344~91.12.30
南北朝期の武将。丹波・和泉両国ほかの守護。山名時氏の子。1378年(永和4・天授4)和泉国守護となり,紀伊国守護となった兄義理(よしただ)とともに南朝勢力の征討に活躍。90年(明徳元・元中7)将軍足利義満の命令に従い甥で女婿の満幸とともに同族時熙(ときひろ)・氏之(幸)を攻めたが,91年満幸の失脚,時熙らの赦免など,山名一族の勢力削減を狙う義満に翻弄された。このため満幸らと反抗を決意し,同年12月和泉から京都に進攻したが敗死(明徳の乱)。
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…1391年(元中8∥明徳2)に山名氏清,山名満幸らが反幕府的行動を起こし,討たれた乱。山名氏は清和源氏新田氏の一族で,足利尊氏の挙兵に応じて活躍し,山陰地方を根拠として勢力を拡大した。…
…侍所頭人が山城国守護を兼帯することになったのである。その後,85年(元中2∥至徳2)には山名氏清(やまなうじきよ)が守護に補任されることによって,はじめて単独の守護が成立した。明徳の乱(1391)に山名氏清が敗北したのちは,将軍の近習や侍所頭人が守護となっているが,いずれもが短期間で交替している。…
※「山名氏清」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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