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山名時煕 やまなときひろ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

山名時煕
やまなときひろ

[生]正平22=貞治6(1367)
[没]永享7(1435).7.4. 京都
室町時代の武将。時義の子。持豊 (宗全) の父。父時義の没後,山名氏一族に内紛が起り,氏清,満幸らによって領国但馬を追われ,備後に逃げた。明徳の乱に際しては,足利義満につき,後,但馬,因幡,備後を与えられた。応永5 (1398) 年侍所所司に就任。和歌を好み,『新続古今和歌集』に収められている。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

山名時煕 やまな-ときひろ

1367-1435 南北朝-室町時代の武将。
貞治(じょうじ)6=正平(しょうへい)22年生まれ。山名時義の長男。山名持豊の父。康応元=元中6年家督をつぐが,守護大名の勢力削減をねらう足利義満(よしみつ)の命をうけた山名氏清・満幸に敗れる。翌年の明徳の乱では幕府方として氏清・満幸を追討,応永の乱でも功をたて,応永21年侍所頭人となる。但馬(たじま),備後(びんご),安芸(あき)の守護を歴任。和歌,漢詩に通じた。永享7年7月4日死去。69歳。

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朝日日本歴史人物事典の解説

山名時煕

没年:永享7.7.4(1435.7.29)
生年:貞治6/正平22(1367)
南北朝末・室町時代の武将。時義の子。宮内少輔,右衛門佐,右衛門督。康応1/元中6(1389)年5月,家督時義の死後いったん家督兼但馬守護に就任したが,室町幕府将軍足利義満は山名氏の弱体化を策して同族の氏清・満幸,細川頼之らに時煕・氏幸兄弟を討たせた。両人は備後に逃げたが同国も細川軍に押さえられ,やむなく上洛して義満に宥免を請うた。この時点で時煕は一切の所帯を失うが,明徳の乱(1391)では幕府方に馳せ参じて氏清らを攻め,乱後但馬守護に復帰を許された。その後,将軍義満・義持に恭順を示し,応永21(1414)年,一族の満時は侍所に就任,分国も但馬,因幡,伯耆の3国に加え,備後,安芸,石見などが与えられ,義持政権下では有力守護の一角に食い込み,幕閣でも宿老として重きをなした。正長1(1428)年義持が死去し,その後継者をくじで決するに当たっては管領畠山満家と共に立ち会いを務め,次の足利義教政権下では管領斯波義淳を凌いで満家と並ぶ最有力宿老として活動している。

(今谷明)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

山名時煕
やまなときひろ
(1367―1435)

室町時代の守護。法名常煕(じょうき)。時義(ときよし)の子。大守護勢力削減を意図していた将軍足利義満(あしかがよしみつ)は、1389年(元中6・康応1)の時義没後の惣領(そうりょう)職をめぐる山名氏の内紛に介入、一族の山名氏清(うじきよ)・満幸(みつゆき)らに時煕を討たせた。しかし満幸は義満の意に反し、92年(元中9・明徳3)氏清とともに明徳(めいとく)の乱を起こして敗れ、乱後山名氏惣領となった時煕は但馬(たじま)守護職を得る。応永(おうえい)の乱で和泉(いずみ)の堺(さかい)城攻略で功をあげた時煕は、1401年(応永8)備後(びんご)守護職に補され、翌年には幕府の口入れにより高野山(こうやさん)領同国大田荘(しょう)を年貢1000石で守護請した。かくして時煕は一族の力を背景に将軍にも近侍し、幕閣に高い地位を確立した。また、文化人としての教養も高く、『新続古今集』の撰(せん)に入り、漢詩にも長じていた。諡号(しごう)は大明寺殿巨川常煕。[田沼 睦]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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