後陽成天皇の皇子好仁親王が1625年(寛永2)一家を起こして高松宮と称したのに始まる宮家。その称は親王の養母新上東門院の居所高松殿に由来する。世襲親王家の一つ。好仁親王には嗣子がなく,後水尾天皇の皇子良仁親王が第2代を相続して花町宮と称したが,のち皇位を継いで後西天皇となったためしばらく継嗣を絶ち,やがて同天皇の皇子幸仁親王が第3代を継承,その後72年(寛文12)後水尾天皇により有栖川宮と改称した。新号の由来は明らかでない。第4代正仁親王は早世して後嗣がなく,霊元天皇の皇子職仁親王が第5代を相続,以後織仁,韶仁,幟仁,熾仁,威仁の各親王が実系をもって相承けた。しかし威仁(たけひと)親王の王子栽仁王が早世して継嗣を欠くに至ったので,1913年親王の臨終にあたり,大正天皇はとくに皇子宣仁親王に高松宮の宮号を賜い,当宮の祭祀を承けさせた。江戸時代の家禄は1000石,書道・歌道を家学とした。
執筆者:武部 敏夫
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世襲四親王家の一つ。初代は後陽成(ごようぜい)天皇の皇子好仁(よしひと)親王で、1625年(寛永2)高松宮家を創立した。2代は後水尾(ごみずのお)天皇の皇子良仁(ながひと)親王で、花町宮、桃園宮と称したが、のちに皇位を継承した(後西(ごさい)天皇)。14年の空白ののち、1667年(寛文7)後西天皇の皇子幸仁(ゆきひと)親王が3代目の宮家を継ぎ、有栖川と改称した。4代正仁(ただひと)親王早世ののち、5代を霊元(れいげん)天皇の皇子職仁(よりひと)親王が継ぎ、以来、織仁(おりひと)、韶仁(つなひと)、幟仁(たかひと)、熾仁(たるひと)、威仁(たけひと)の各親王がたった。10代威仁親王の王子が早世したので、大正天皇の第3皇子宣仁(のぶひと)親王が高松宮の称号により祭祀(さいし)を継承した。歌道、書道が家学とされてきたが、熾仁親王は幕末以後、政治、軍事に参画した。
[井上勝生]
高松宮と称した後陽成(ごようぜい)天皇の第7皇子好仁(よしひと)親王を祖とする宮家。世襲親王家の一つ。2代は後水尾(ごみずのお)天皇の皇子良仁(ながひと)親王で花町宮と称したが,皇統を継いで後西(ごさい)天皇となったため中絶。のち後西天皇の第2皇子幸仁(ゆきひと)親王が3代を継承して,1672年(寛文12)有栖川宮と改称。4代正仁(ただひと)親王には後嗣がなく,霊元天皇の皇子職仁(よりひと)親王が相続,10代威仁(たけひと)親王のとき王子栽仁(たねひと)王が早世したため断絶。ただし大正天皇は威仁親王の死去に先立ち,特旨をもって第3皇子宣仁(のぶひと)親王に高松宮を与え,当宮家の祭祀をうけつがせた。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…ちなみに常磐井宮,木寺宮の初代は大覚寺統の皇統の嫡嗣と定められ,伏見宮は持明院統の嫡流とされた家柄である。伏見宮創立の後久しく宮家の新立を見なかったが,やがて桂宮,有栖川(ありすがわ)宮,閑院宮の3宮家が設けられた。桂宮は初め八条宮と称し,1589年(天正17)の豊臣秀吉の奏請によって,翌年正親町天皇の皇孫智仁親王が創立,淑子内親王まで11代にわたって存続し,その間宮号を初め京極宮,さらに桂宮と改めた。…
※「有栖川宮」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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