山田太一(読み)ヤマダタイチ

デジタル大辞泉 「山田太一」の意味・読み・例文・類語

やまだ‐たいち【山田太一】

[1934~2023]脚本家小説家東京の生まれ。本姓石坂テレビドラマ脚本家として活躍し、「岸辺アルバム」「ふぞろいの林檎りんごたち」など、多くのヒット作を手がけた。小説「異人たちとの夏」では山本賞受賞

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「山田太一」の意味・わかりやすい解説

山田太一
やまだたいち

[生]1934.6.6. 東京,東京
[没]2023.11.29. 神奈川,川崎
放送作家,作家。本名石坂太一。おもにテレビドラマのシナリオを手がけ,数々の名作を残した。
東京市浅草区(現東京都台東区浅草)で大衆食堂を営む両親のもとに生まれる。強制疎開で神奈川県湯河原町へ移住。神奈川県立小田原高等学校を経て,1958年に早稲田大学教育学部国語国文学科を卒業。大学では劇作家寺山修司親交を結ぶ。松竹に入社し,大船撮影所演出部に勤務,木下恵介に師事する。1965年に退社し,1973年『それぞれの秋』で芸術選奨文部大臣新人賞を受賞。その後,高視聴率の優れた作品を次々と発表した。1977年,核家族の姿を主婦の目から克明に描いた『岸辺のアルバム』で話題を呼んだ。代表作にはほかに『男たちの旅路』(1976~82),『想い出づくり』(1981),『ふぞろいの林檎たち』(1983,1985,1991)など。映画,舞台,小説の分野でも活躍し,特に小説では『飛ぶ夢をしばらく見ない』(1985),『異人たちとの夏』(1987),『遠くの声を捜して』(1989)の三部作などで,作家としての地位を確立した。1983年向田邦子賞,1985年菊池寛賞,1991年日本アカデミー賞最優秀脚本賞など受賞多数。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「山田太一」の解説

山田太一 やまだ-たいち

1934- 昭和後期-平成時代の脚本家。
昭和9年6月6日生まれ。松竹大船撮影所の助監督をへてフリーとなる。「岸辺のアルバム」「ふぞろいの林檎たち」などテレビドラマの話題作を発表し受賞多数。「キネマ天地」で映画シナリオに進出。小説も手がけ,昭和63年「異人たちとの夏」で山本周五郎賞。脚本はほかに「ちいさな橋を架ける」など。27年長年にわたって日本のテレビドラマづくりを牽引したとして朝日賞。東京出身。早大卒。本名は石坂太一。

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367日誕生日大事典 「山田太一」の解説

山田 太一 (やまだ たいち)

生年月日:1934年6月6日
昭和時代;平成時代の脚本家;小説家

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の山田太一の言及

【ホームドラマ】より

… こうしたホームドラマは,一見,身動きの取れぬマンネリズムに陥りそうに思えるが,上記のような大枠の中での〈細部の変奏〉はまったく自由であり,そのような多様な細部が,出演人気タレントのバラエティの魅力とともに,これまで多くの人々を楽しませてきた。また,近年活躍した橋田寿賀子(1925‐ ),山田太一(1934‐ ),向田邦子(1929‐81)といった第一線のシナリオライター(ちなみに,橋田は松竹脚本部の出身であり,山田は松竹で木下恵介の助監督をしていた)の諸作品にみられたように,ホームドラマは現実の家庭の人間関係の変貌や種々の社会的問題を,ある距離を置きながらも,その中に反映させて,同時代の身近なドラマとして〈茶の間〉の人気を保ち続けている。【川添 裕】。…

※「山田太一」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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