山科七郷
やましなしちごう
現山科区のうち小野・勧修寺以外のほぼ全域の地。南北朝期以降に山科地域一円に形成された郷村の総称で、本所を皇室とする。「山科七郷」として文献にみえるのは観応年間(一三五〇―五二)の擾乱の時期、園城寺申条々(園城寺文書)に「一、山科七郷粟津五ケ所并松□住人等相従当寺可致忠節由可被成御教書事」とあるのが早い。しかし既に貞和二年(一三四六)、山科郷民と醍醐郷民の争いが起こっていることから(「賢俊僧正日記」二月二〇日条)、郷村の結合は更にさかのぼることができよう。
〔領主関係〕
この地が皇室領となったのは、古くは「延喜式」にみえる「山科園」に源流するものと推測されるが、直接には平安末期に後白河院が大宅に院御所を営み、その周辺を領有したことに関係があると考えられる。この院領は山科小野庄とよばれ、建久三年(一一九二)の御白河院庁下文案(大徳寺文書)によれば、丹後局こと高階栄子が京中山城四ヵ所、諸国一一ヵ所にわたる荘園ともども伝領。その後、一時期比丘尼顕蓮領となったこともあったらしいが(「後鳥羽院庁下文案」大徳寺文書)、栄子の息冷泉教成(のち山科家を名乗る)に伝領されて、後の山科七郷の核ともいうべき山科小野庄への、山科家の領家的立場が確立する(→山科小野庄)。しかしこの地域が本所であり禁裏御料であったことに変りはなく、その立場は明治維新に至るまでほぼ一貫して引継がれた。
一方「山科家礼記」によれば、応仁二年(一四六八)頃の七郷の内訳と領主は左のとおりである。
<資料は省略されています>
この時期は、一村一郷の野村郷のほかは、いずれも本郷から枝郷が分れ、大宅里・西山・北花山・御陵・安祥寺・音羽が本郷で、自余はそれぞれ組郷とされ、一一の領主(知行主)によって分有されていたことが知れる。
またここに挙げられる知行主の多くは、皇室に関係の深い門跡寺院や官衙である。このことから、山科小野庄を中心にその周辺(後の山科七郷)に拡大された皇室領が、その具体的経緯は不詳ながら、個別的に門跡寺院等に与えられていったと考えられる。従って聖護院以下の領主は、領主といっても本所である皇室領に対して一定の所職を保有するだけで、排他的・独占的な領有権はもっていたわけではない。ただし、このうち領主としてみえる醍醐寺三宝院(現伏見区)だけは、幕府との密接な関係や、山科に近接していることなどから、かなり強い支配力を有していた。
山科家も、ほかの領主と同じく大宅里の知行主として記されるが、前述の経緯から、同時に山科七郷全体の領家的立場にもあった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
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