日本歴史地名大系 「山科七郷」の解説
山科七郷
やましなしちごう
〔領主関係〕
この地が皇室領となったのは、古くは「延喜式」にみえる「山科園」に源流するものと推測されるが、直接には平安末期に後白河院が
一方「山科家礼記」によれば、応仁二年(一四六八)頃の七郷の内訳と領主は左のとおりである。
この時期は、一村一郷の
またここに挙げられる知行主の多くは、皇室に関係の深い門跡寺院や官衙である。このことから、山科小野庄を中心にその周辺(後の山科七郷)に拡大された皇室領が、その具体的経緯は不詳ながら、個別的に門跡寺院等に与えられていったと考えられる。従って
山科家も、ほかの領主と同じく大宅里の知行主として記されるが、前述の経緯から、同時に山科七郷全体の領家的立場にもあった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報