改訂新版 世界大百科事典 「山科家」の意味・わかりやすい解説
山科家 (やましなけ)
藤原北家房前(ふささき)の男魚名の後裔で,四条家の支流に当たる。すなわち四条中納言家成の六男権中納言実教(さねのり)(1150-1227)を祖とする。後白河法皇の寵妃丹後局(高階栄子)の子教成(のりしげ)(1177-1239)は法皇の信任が厚く,勅旨により四条実教の嗣子となり,丹後局の山科の別業を譲られ,子孫は同所に住んだが,南北朝時代の中ごろ,教行のときから地名にちなんで山科を姓とするようになった。同家は羽林家(うりんけ)の一つで,代々近衛府の少・中将を経て大納言に至るのを例とし,南北朝期から内蔵頭を世襲し,また室町期からは四条家と並んで朝廷の楽所(がくしよ)別当に補せられ,管絃を家職とするようになり,ことに笙に秀でた。さらに有職故実を家業とし,装束・衣紋のことをつかさどった。戦国時代の言国(ときくに)(1452-1503),言継(ときつぐ)はそれぞれ《言国卿記》《言継卿記》という貴重な日記を残しており,言継の子言経(ときつね)(1543-1611)は同じく《言経卿記》を残しているほか,謡曲の校訂註解を行って名高い。江戸時代には家禄として300石を給され,高倉家とともに天皇の装束類の調進を管掌したほか,頼言,忠言は議奏,また忠言は文化・文政ころに武家伝奏に任じて公武の間に斡旋した。幕末期の言縄は議奏加勢に補されて時務に関与し,維新後は桂宮祗候,殿掌等を務めたほかは官途につかず,家業として伝承して来た衣紋道,有職故実の保存,教授につとめた。江戸時代を通じて,言緒,言行,尭言,頼言,忠言,言知,言成および言縄など,歴代当主の日記をはじめ,家司等の記録も一部現存しており,日記等が残っていることでは珍しくない諸公家記録中でも異彩をはなっている。なお言縄は1884年華族令の制定に際し伯爵を授けられた。
執筆者:川田 貞夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報