岡田信一郎(読み)おかだしんいちろう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「岡田信一郎」の意味・わかりやすい解説

岡田信一郎
おかだしんいちろう
(1883―1932)

建築家。東京に生まれる。1906年(明治39)東京帝国大学工科大学建築学科卒業。1912年大阪中之島の中央公会堂の指名競技設計で一等入選し、大正から昭和初年にかけて活躍。建築論と様式設計に抜群の才能を示す。おもな作品には歌舞伎(かぶき)座(1925)、東京府立美術館(1926)、明治安田生命保険相互会社の明治生命館(1934)などがある。関東大震災で破損したニコライ堂修復も担当。また早稲田(わせだ)大学、東京美術学校教授として建築家の育成にあたった。なお、東京府美術館は1943年(昭和18)東京都美術館と名称を変更、1975年(昭和50)建て替えられた(前川国男設計)。明治生命館は1997年(平成9)国の重要文化財に指定された。

[天田起雄]

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20世紀日本人名事典 「岡田信一郎」の解説

岡田 信一郎
オカダ シンイチロウ

大正・昭和期の建築家



生年
明治16(1883)年11月20日

没年
昭和7(1932)年4月4日

出生地
東京府

学歴〔年〕
東京帝国大学建築学科〔明治39年〕卒

主な受賞名〔年〕
大阪市中之島中央公会堂指名競技設計1等賞〔大正1年〕

経歴
東大大学院で研究、一方早大講師、東京美術学校教授として建築史、建築意匠を講じた。建築家としては大正14年鉄筋コンクリート造りの東京歌舞伎座、鎌倉国宝館、15年ギリシャ様式の東京府美術館、震災で焼け落ちたニコライ堂ドームの設計、昭和9年ルネサンス様式の明治生命ビルなどがあり、どのような様式でも自由に使いこなし“様式建築の名手”といわれた。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「岡田信一郎」の意味・わかりやすい解説

岡田信一郎
おかだしんいちろう

[生]1883.11.20. 東京
[没]1932.4.4. 東京
建築家。 1906年に東京帝国大学卒業。早稲田大学,東京美術学校教授。様式建築に精通し,建築設計および評論で活躍。 23年に大阪市の中之島公会堂の設計競技で1等入選し,東京の歌舞伎座 (1925) ,東京府立美術館 (26) ,東京,神田のニコライ堂 (関東大震災後の修復,30) などを手がけた。古典主義オフィスビルの傑作と称される明治生命館 (34) が遺作となった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「岡田信一郎」の解説

岡田信一郎 おかだ-しんいちろう

1883-1932 明治-昭和時代前期の建築家。
明治16年11月20日生まれ。大正元年大阪市中之島中央公会堂の設計競技で1等当選。ニコライ堂修復のほか,歌舞伎座,東京府美術館,明治生命ビルなど,おおくの洋式建築を設計した。東京美術学校(現東京芸大)教授。昭和7年4月4日死去。50歳。東京出身。東京帝大卒。

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367日誕生日大事典 「岡田信一郎」の解説

岡田 信一郎 (おかだ しんいちろう)

生年月日:1883年11月20日
大正時代;昭和時代の建築家。東京美術学校教授
1932年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の岡田信一郎の言及

【近代建築】より

…すなわち19世紀の様式からの脱却は新傾向の模倣によって可能だったのではなく,模倣からの脱却こそがその原動力であることを発見したのであった。1910年代に岡田信一郎(1883‐1932),後藤慶二,高松政雄らはそうした思索を繰り返し,やがてそれは20年の分離派建築会に受け継がれる。 分離派建築会は過去の様式からの分離と決別をうたい,内から湧き出る創造力を賛美する姿勢を明らかにした。…

※「岡田信一郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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