岡田和一郎(読み)オカダ ワイチロウ

20世紀日本人名事典 「岡田和一郎」の解説

岡田 和一郎
オカダ ワイチロウ

明治〜昭和期の耳鼻咽喉科学者 東京大学名誉教授



生年
文久4年1月3日(1864年)

没年
昭和13(1938)年5月30日

出生地
伊予国西条(愛媛県)

学歴〔年〕
東京大学医学部〔明治22年〕卒

学位〔年〕
医学博士

経歴
5歳より継母に育てられ。明治10年西条開明小学校卒業後、西条町立病院の用度課雇いとなり、15歳の時に松山病院院長・渡部悌次郎方に寄寓し、日本外史・ドイツ語を学ぶ。13年上京し独逸学校及び医学予備校に入学。14年東京大学医学部予科に入り、17年同大医学部に入学するが、同年父が死去苦学の末に、22年特待生となって大学を卒業。同大助手となり外科に入局、傍ら当時医学界のジャーナリズムを代表していた「東京医事新報」の主筆を森鷗外の後任として担当。これが縁で後日、森鷗外の再婚媒酌と鷗外の娘・茉利子の結婚の媒酌をする。28年32歳で助教授となり、29年文部省の命によりドイツ、オーストリア留学し、ベルリン大学のフレンケル教授などの指導を受ける。32年帰国し日本で初めての耳鼻咽喉科学講座を担当、35年教授となる。耳鼻咽喉科学の国立大学派遣留学生の第1号としてこの学科を独立させ、以後定年まで同講座を担当する一方、大日本耳鼻咽喉科学会の設立にも尽力した。またアジアへ日本の医療を普及させる趣旨で同仁会を設立、39年同仁会薬学校校長となり、根岸養生院を開設、三井慈善病院の創立に参加、41年日本癌研究会創立に参与、大正4年聖路加病院の創立に参画した。13年定年退職して名誉教授となる。昭和3年昭和医学専門学校の設立に参与、校長及び理事長の職に就いて教鞭も執り、医学者としての倫理を講義した。著書に「鼻科学纂録」「耳科学纂録」「咽喉気管纂録」などがある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「岡田和一郎」の解説

岡田和一郎 おかだ-わいちろう

1864-1938 明治-昭和時代前期の耳鼻咽喉科学者。
文久4年1月3日生まれ。母校帝国大学医科大学の助教授となり,明治29年ドイツ,オーストリアに留学。帰国後日本ではじめての耳鼻咽喉科学講座を担当,35年教授となる。大日本耳鼻咽喉科学会の設立に尽力した。昭和13年5月30日死去。75歳。伊予(いよ)(愛媛県)出身

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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