中国、明(みん)末の宦官(かんがん)。河北河間の人。年少から無頼漢で、賭博(とばく)に負けたので宦官となった。天啓帝の乳母客(うばきゃく)氏と私通し、天啓帝が即位するとその寵(ちょう)を得、まったくの無学にもかかわらず司礼秉筆太監(しれいへいひつたいかん)(宦官の最高職)となった。当時、東林党・非東林党の政争が激しく、非東林党は自衛のために魏忠賢と結び、卑劣な手段をもって東林党の弾圧を図った。忠賢はまず東厰(とうしょう)(秘密警察)を兼督して政治を専断し、口実を設けては東林派を投獄し政治から追放した。やがて粛寧(しゅくねい)侯に封ぜられると、スパイを放って暴威を振るい、宮廷の実権を握った。そのため在廷の官僚は、その下風にたっておもねる者が多く、ついには彼を生神として祀(まつ)る者も現れ、全国各所に彼の生祠(せいし)が建てられた。しかし、1627年、天啓帝が崩じ崇禎(すうてい)帝が即位すると、彼を弾劾する者が全土に満ち、ついに自ら縊死(いし)した。死後さらに磔刑(たっけい)に処せられ、愛人客氏は笞刑(ちけい)で殺された。
[川越泰博]
中国,明末の宦官。無頼の出身で賭博に負けて宦官となったが,熹宗(在位1621-27)が立つと司礼監秉筆(へいひつ)太監(宦官の最高職)となり,東厰(秘密警察)を兼督して政務を専断し,権勢をふるった。当時は東林党と非東林党の政争がはげしかったが,彼は東林党を弾圧し,《三朝要典》をつくってその言動をきびしく取り締まった。しかし毅宗が立つと弾劾されて自殺し,死後さらに磔刑(たつけい)となった。
執筆者:谷 光隆
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?~1627
明末の宦官(かんがん)。無頼の出身で宦官となり,熹宗(きそう)天啓帝の代には司礼太監にすすみ,東林党を徹底的に弾圧して権勢をふるった。毅宗(きそう)崇禎(すうてい)帝が立つと失脚し自殺した。
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…その根城は宮中の宦官24衙門で,多いときには数万人の宦官がいたというが,とくに司礼監太監(宦官の最高位職)は内閣の首席大学士よりも権力が強く,軍事,警察,司法もまたその手ににぎられた。その代表的なものは王振,劉瑾,魏忠賢らである。しかし,明代にはすでに天子の独裁権が確立していたので,宦官は天子を後ろだてとしてだけ権力があり,いったん天子の信頼を失えばただちに失脚するので,この点は漢・唐と異なっている。…
※「魏忠賢」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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