嶽山城跡(読み)だけやまじようあと

日本歴史地名大系 「嶽山城跡」の解説

嶽山城跡
だけやまじようあと

[現在地名]富田林市竜泉

山城とも記し、竜泉寺りゆうせんじ城ともいう。竜泉寺の北西方、標高二七八メートル、比高一八三メートルの嶽山山頂付近にあった山城。

延文四年(一三五九)足利義詮は自らも尼崎あまがさき(現兵庫県尼崎市)まで出陣し、当時後村上天皇が行在所をおいていた南河内に、細川清氏・畠山国清らの大軍を動員して大攻勢をかけた。これを迎え撃つ楠木正儀・和田正武らは、竜泉(竜山とも書く)赤坂あかさか(現南河内郡千早赤阪村)東条とうじよう城などを構えて布陣した(同五年六月日付「瓦林島田基忠軍忠状」末吉文書)。竜泉寺城には、楠木・和田氏らが相談して初め大和・河内の兵一千余人を配備したが、石川を隔てた北方津々山つづやまに拠った寄手が急に攻めようとはしなかったので、野伏一〇〇人ばかりを見せ勢に残しただけで野戦をいどもうとした。ただし木の梢などに旗を結びつけ、大勢が籠るように見せかけたので、寄手は依然攻めようとしなかった。ところがある時、寄手の土岐桔梗一揆の一人が、空を飛ぶ鳥が驚かないことから、旗ばかりであることを見破り、同五年閏四月二九日早朝、桔梗一揆だけで竜泉寺城を落して高名をあげようと、一ノ木戸口に押寄せて鬨の声をあげた。


嶽山城跡
たけやまじようあと

[現在地名]中之条町五反田

嵩山・岳山とも書く。標高七八九メートルの嵩山頂上にある山城で、実城平みじようだいらの本丸跡、竪堀などが残る。永禄六年(一五六三)一〇月、東吾妻地方を支配していた斎藤越前守憲広が、武田信玄の上野攻略の先鋒である真田幸隆によって岩櫃いわびつ(現吾妻町)を攻略され、越後上杉謙信を頼って退去した。斎藤憲広の末子城虎丸は嶽山城に籠城、武田方の兵と対立した。岩櫃落城によって嶽山城が注目されるようになった。同八年二月、信州新海明神・諏訪上社に捧げた武田信玄の願文(守矢文書・山宮文書)には、上州攻略の目標として箕輪みのわ(現群馬郡箕郷町)を第一とし、嶽山城などをあげている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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