五反田村(読み)ごたんだむら

日本歴史地名大系 「五反田村」の解説

五反田村
ごたんだむら

[現在地名]多摩区長沢ながさわ一―四丁目・南生田みなみいくた一―八丁目・西生田にしいくた一―五丁目・栗谷くりや一―四丁目・生田いくた六―八丁目・三田みた一―五丁目、麻生あさお東百合丘ひがしゆりがおか一―四丁目

西は高石たかいし(現麻生区)、南は天真寺てんしんじ新田(現宮前区)に接し、東の上菅生かみすがお村、下菅生しもすがお(現宮前区)と村境が錯雑する。起伏の多い丘陵地の村。長沢・押沼おしぬま三田台みただい籠場台ろうばだい塔の腰とうのこし鍛冶台かじだいなどの小字がある。「風土記稿」によれば戦国期には小机こづくえ(現横浜市港北区)城主北条氏尭領と伝える。田園簿に「上菅生村五反田共」、元禄郷帳に「五反田村」とある。

天正一八年(一五九〇)本多正信領、寛永年中(一六二四―四四)旗本本多・市岡領の二給、元禄二年(一六八九)以降幕府直轄領。


五反田村
ごたんだむら

[現在地名]浜玉町大字五反田

玉島たましま川が七山ななやまの渓谷より出てつくる扇状地にあり、大村おおむら神社を中心として形成される。五反田・一本松いつぽんまつ簗場やなぎば大門だいもんの集落からなる。「延喜式」には松浦郡の駅として五つを記すが、その一つ大村は、五反田の地に比定される(→大村駅

かつて大村とは、玉島川右岸一帯をさしたが、元和二年(一六一六)の検地のとき五反田・岡口おかぐち谷口たにぐち淵上ふちのうえ南山みなみやまの五つに分村されている(天保郷帳では一村扱い)

かつてはこの村の近くまで海岸が入り込んでいたと考えられる。


五反田村
ごたんだむら

[現在地名]中之条町五反田

西中之条にしなかのじよう村・横尾よこお村の西北にある。宛先欠であるが、永禄七年(一五六四)の武田家朱印状(高橋文書)に「本地五反田拾貫文、新恩真米七貫文」がみえる。馬込まごめの字名があるので、これらの地は当地にあたると考えられる。天正一八年(一五九〇)五月二九日、真田昌幸に従って松井田合戦に加わった富沢和泉守に対し、五反田のうち三二貫文が宛行われている(真田昌幸感状「宗学寺記録」所収)。当村はもと西中之条村・折田おりだ村・山田やまだ村などと一村で、西中之条村に割本庄屋が置かれていたが、天正の頃から五反田村庄屋は三右衛門家に渡ったと伝えるので(「由緒書」田村文書)、分村の時期はこの頃と思われる。万治二年(一六五九)の沼田藩領分書上写によると高二五七石余、寛文郷帳では田方六九石余・畑方一八七石余。


五反田村
ごたんだむら

[現在地名]甲賀町五反田

高嶺たかみね村の東、丘陵に位置。東をそま川支流の五反田川が流れる。集落は大きくさと余野よのに分けられる。杣街道が通り、古くから伊賀国へ抜ける交通の要地。壬申の乱・源平の乱も当地付近を合戦場の一つとした。和田わたの住民が漸次移住して一村をなし、中世末に成立したという。天正元年(一五七三)一二月七日の西川文書に「五段田」とみえる(甲賀郡志)。同年七月、当村と上柘植かみつげ(現三重県阿山郡伊賀町)との国境付近の立会山をめぐって、上柘植村が立会を拒否したことから相論となり、弓矢による衝突、当村住人による上柘植村民の脇差取上げなどの事態となった。


五反田村
ごたんだむら

[現在地名]八幡浜市五反田

五反田川流域の谷間の村。東は国木くにぎ村、南は大峠おおとう村に接する。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)宇和郡の項に「五反田村 川有、水損所」と記される。「大成郡録」に「内之時五反田村大峠村壱所ニ成」とあり、寛文検地の時に大峠村と合したことがわかる。宇和島藩領。

太閤検地の石高は一六一石五斗六升、耕地面積の比率は田三三パーセント、畑六七パーセントであったが、寛文検地では大峠村と合わせて石高二二五石、田二七パーセント、畑七三パーセントの比率となっている。


五反田村
ごたんだむら

[現在地名]足助町五反田

伊那いな街道沿いの千田せんだ村から足助川の支流菅生すごう川右岸に沿う道を入ったところに位置する。東北から東にかけて明川あすがわ村、南は上八木うばやぎ村、西は千田村、北は平沢ひらさわ村に接する。集落は谷地形の中の山麓に点在。中央部山麓の緩傾斜地にクニワカダ遺跡があり、縄文時代中期・後期の土器片、一一世紀頃の灰釉陶器片を出土する。寛永一二年(一六三五)当時、刈谷城主松平忠房領。


五反田村
ごたんだむら

[現在地名]日野町清田きよだ

清水脇しみずわき村の東にあり、集落は同村の集落と接するように形成され、北端を日野川が西流する。地内の清田遺跡は中世以前の寺院跡といわれるが詳細は不明。文明八年(一四七六)一二月一六日の十禅師御宮納帳(比都佐神社文書)に「五反田」とみえ、左近二郎・たつ衛門二郎・下衛門・衛門二郎・馬四郎太夫の五名が計一石六斗余の米を比都佐ひつさ神社に寄進、同時代頃と思われる神輿勧進日記(同文書)でも当地の衛門三郎が同社に米五斗を寄せている。元和六年(一六二〇)仁正寺藩領となる。寛永石高帳では高四七一石余。


五反田村
ごたんだむら

[現在地名]松尾町五反田・祝田いわいた

水深みずふか村の北東に位置する。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に「五畝田村」とみえ、高九六石。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では早舟組に属し、高一〇二石、旗本川口領。元禄郷帳では高一九四石余。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では高二〇一石余、家数五〇、川口領。以後幕末まで同領(旧高旧領取調帳)。嘉永二年(一八四九)には鹿狩人足六人を出している(「鹿狩御用添触」伊藤家文書)。明治三年(一八七〇)村内の一部が祝田となった。


五反田村
ごたんだむら

[現在地名]桑名市五反田・野田のだ大山田おおやまだ

現桑名市の西部にあり、員弁いなべ川を隔てて志知しち村の北にある丘陵地。西端から当村南部にかけて弁天べんてん川が流れている。弁天川の西は現員弁郡東員とういん町。当村の中央部を東西に濃州(員弁)街道が通る。文政一〇年(一八二七)の桑名領郷村案内帳には家数四八、人数一六一、牛二〇、馬六とあり、鎮守に八幡宮、寺院に大日だいにち堂ほかを記す。真言宗伝西でんさい寺があったが、慶長年間(一五九六―一六一五)に浄土真宗東派(現真宗大谷派)に改宗。


五反田村
ごたんだむら

[現在地名]加茂市五反田

後須田うらすだ村の東に位置し、信濃川左岸沖積地に立地。下流にうさぎ新田(現白根市)、上流に前須田まえすだ村がある。慶長三年(一五九八)頃の新発田御領内高付帳(新発田市史資料)で高一六八石六斗余。同一七年の御蔵納同払方帳(同書)に「五反田両須田村」(一一三石二斗余)と記される。また「五斗 五反田彦三ニ鮭の御ほうひに被下」とある。同一五年頃の給知方ほど役帳(同書)は室役米一軒(三斗五升)を記す。正保国絵図では高一六〇石余。寛文七年(一六六七)と推定される御領内見分之書付(貴船家文書)によれば、物成高一三三石五斗余、家数二二・人数一八二。明和三年(一七六六)の各組村別郷村高帳(新発田市立図書館蔵)では高一〇五石五斗余・反別二六町八反余。


五反田村
ごたんだむら

[現在地名]津幡町五反田

河北潟東方、津幡川下流左岸の沖積低地に位置。天正一四年(一五八六)正月二二日の前田利家印判状写(黒津舟神社文書)に五段田村とみえ、黒津舟くろつぶね権現(現内灘町の小浜神社)再興の協力を命じられている。正保郷帳では高一九四石余、田方一一町六反余・畑方一町三反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高二五九石、免五ツ九歩、小物成は草野役五匁(三箇国高物成帳)。延宝元年(一六七三)南方の潟端新かたばたしん村との入会地で六五石を新開(文化八年「河北郡村々書上帳」林文書)


五反田村
ごたんだむら

[現在地名]長岡市五反田町・関原せきはら町三丁目

高田たかだ往来沿いの関原せきはら新田から北側平地に突出たところにある。永禄三年(一五六〇)一〇月吉日の伊勢御師貫屋家兼売券案(来田文書)に「五多田」とあるのが当村であろう。正保国絵図に村名がみえ、高一一〇石余で高田藩領。高田藩松平光長改易後に行われた幕府の検地集計である天和三年郷帳では枇杷島組に属し、高一七六石七斗余(うち山高三斗・漆高四斗)


五反田村
ごたんだむら

[現在地名]多古町五反田

はやし村の西、多古橋たこばし川の左岸に位置する。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳に村名がみえ、高一〇〇石、旗本中根領で、島組に属した。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高一一七石余、旗本小栗領。以後同氏の知行は幕末まで続く。弘化二年(一八四五)関東取締出役控帳では家数一一。


五反田村
ごたんだむら

[現在地名]横田町中村なかむら

馬場ばば村の東に位置し、斐伊川右岸の河岸段丘上と左岸の沖積地に立地する。正保国絵図に村名がみえる。慶安元年(一六四八)の検地帳によると田高二五七石余・反別二〇町七反余、畑高八石余・反別一町七反余、名請人三五、屋敷数一八(うち御役屋敷九)


五反田村
ごたんだむら

[現在地名]千代田村五反田

東は下志筑しもしづく村、北は上志筑村。寛永五年(一六二八)に下志筑村の地を開発し、明暦四年(一六五八)に分村と伝える(千代田村史)江戸時代は志筑本堂氏領で、文政一一年(一八二八)の戸数七・人数三五(「三十六ケ村家数人数之覚」豊崎家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android