中之条町(読み)なかのじようまち

日本歴史地名大系 「中之条町」の解説

中之条町
なかのじようまち

[現在地名]中之条町中之条町

吾妻川が北東から東に流れを変える地域の北岸と、東南流して吾妻川に合流する四万しま川の北岸に沿う。郷帳には中野条と記すものが多い。戦国時代には真田氏の居城沼田城と信州上田うえだ(現長野県上田市)をつなぐ道の要地でもあった。天正一一年(一五八三)三月二六日の真田昌幸朱印状写(一場文書)によると、「中条」のうち一貫四〇〇文が一場源七郎に宛行われている。同一八年閏一二月一〇日の真田信幸朱印状写(「吾妻記」所収)では唐沢玄蕃丞に「中条」のうち七貫四〇〇文が宛行われている。

集落は古くは、東方を流れる名久田なくた川が吾妻川に合流する付近にあって河原かわら町といったが、文禄四年(一五九五)には河川から離れた一段上の下ノ町(長岡)に移り、中之条新町となった(「吾妻郡略記」上原家蔵、「伊勢町覚書」木暮文書)。さらに寛永九年(一六三二)、一部が王子原おうじばらに移転して町割を引いたという(安政六年「中之条町由来書」桑原文書)。慶長一九年(一六一四)と考えられる一二月一〇日の真田信幸屋敷免宛行状写(「大鋒院殿御事蹟稿」所収)によると、鹿野ゑも助に対し屋敷免三貫文の宛行のほか伝馬が申付けられており、これ以後市が開かれるようになったと推定される。万治二年(一六五九)の沼田藩領分書上写では高二三七石余。寛文郷帳では田方四一石余・畑方一九五石余。寛文三年(一六六三)の沼田藩領新検地控では一千二二九石余、貞享二年(一六八五)の沼田藩領再検地控では七一一石余。元禄一六年(一七〇三)沼田城付となり、宝永元年(一七〇四)沼田領村々石高書上では田方一一町九反余・畑方九三町七反余。

中之条町
なかのじようまち

面積:二三七・三六平方キロ

吾妻郡の北東部に位置し、北は利根とね新治にいはる村と新潟県南魚沼みなみうおぬま湯沢ゆざわ町、東は高山たかやま村・北群馬郡小野上おのがみ村、南は吾妻川を境にあずま村・吾妻町、西は六合くに村と接する。中央部を四万しま(沢渡川を合せてからを山田川ともいう)が南流し、その東側を南流する名久田なくた川とともに南境を東流する吾妻川に注ぐ。国道一四五号が高山村から名久田川沿いに入り、吾妻川に沿って長野原ながのはら町に向かう。同川沿いには渋川と嬬恋つまごい大前おおまえを結ぶ国鉄吾妻線が通る。東部の一部、北部から西部にかけて山地が連なり、とくに北西部は上信越高原国立公園に指定された三国みくに山脈に続く山地で、赤沢あかざわ(一四五四・五メートル)稲包いなつつみ(一五九七・七メートル)に向けて一三〇〇メートル級の山嶺が続く。

中之条町
なかのじようまち

2010年3月28日:吾妻郡中之条町が同郡六合村を編入
【中之条町】群馬県:吾妻郡
【六合村】群馬県:吾妻郡

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「中之条町」の意味・わかりやすい解説

中之条〔町〕
なかのじょう

群馬県北西部,三国山脈から中之条盆地に広がる町。北部は新潟県に,北西部は長野県に接する。1889年町制。1955年沢田村,伊参村,名久田村の 3村と合体。2010年六合村を編入。中心集落の中之条は,吾妻川の河岸段丘上にある街村で,谷口集落として発達。1と 6の日を市日とする六斎市が開設され,米,生糸,薪炭などの取り引きで繁栄した。近代以降も山林地帯を後背地として,製材関連の中小工場が立地。日向見の薬師堂,富沢家住宅(ともに国の重要文化財)があり,白久保のお茶講は国の重要無形民俗文化財。四万温泉沢渡温泉,大塚温泉,花敷温泉尻焼温泉など温泉地が多く,ハイキングコースの野反湖暮坂峠,長野県境に渋峠がある。町域の一部は上信越高原国立公園に属する。吾妻川に沿って JR吾妻線と国道145号線,四万川沿いに 353号線,白砂川沿いに 292号線,405号線が通る。面積 439.28km2。人口 1万5386(2020)。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android