日本の城がわかる事典 「東条城」の解説 とうじょうじょう【東条城】 愛知県幡豆(はず)郡吉良町にあった中世の平山城(ひらやまじろ)。茶臼山(標高291m)から続く尾根の先端部に築かれていた城である。1221年(承久3)に、承久の乱で戦功をあげ三河守護職となった足利義氏が西条城(西尾市、のちの西尾城ともいわれる)を築いた後に、西条城とは矢作古川(当時の矢作川)をはさんだ対岸に築城し、西条城には義氏長男の長氏を、東条城には義氏三男の吉良義継を入城させたともいわれるが、築城年代は不明。以後、義継を祖とする東条吉良氏(前期東条吉良氏)の居城となった。南北朝時代、東条城主の貞家・満家は奥州管領として奥州攻略に赴いた。その隙を狙って、西条吉良氏の尊義が空城となった東条城を占領して居城とした。この尊義を始祖とする東条城の城主一族を後期東条吉良氏という。その後、西条と東条は吉良氏の正統を互いに主張して争い、1467年(応仁1)から始まった応仁の乱では、第10代の東条城主の東条吉良義藤は山名宗全に与し、細川勝元方に属した西条城を居城とする西条吉良氏と争っている。戦国時代に入り、尾張の織田氏や三河の松平氏、遠江(とおとうみ)・駿河の今川氏の勢力が伸びてくると東条吉良氏と西条吉良氏は和睦し、西条吉良氏から義安を養子に迎えて、長年対立を続けた吉良氏の統一がなった。吉良氏は松平清康(徳川家康の祖父)に従ったが、1535年(天文4)に清康が殺害されると、織田信秀(織田信長の父)と結んで今川氏に対抗したが敗れた。桶狭間の戦いの後、三河で自立した松平元康(のちの徳川家康)は三河の平定に乗り出したが、当時、東条城は第14代の吉良義昭の居城となり元康(家康)に敵対した。このため、1561年(永禄4)、1563年(永禄6)の、2度にわたり元康(家康)の攻撃を受けてついに敗れ、義昭は城から退いて、以後、東条松平家の居城となった。1581年(天正9)、城主の松平家忠が跡継ぎのないまま病没したため、徳川家康の四男の松平忠吉が家忠の養子となって家督を相続したが、忠吉は東条城には入城せず、さらに翌1582年(天正10)には忠吉が駿河の沼津城主となったことから、東条城は廃城になった。東条吉良氏の義定(東条吉良氏第13代義安の子)が、その後旗本として家康に取り立てられ、吉良陣屋(吉良町)を置いて、東条吉良氏を再興した。この義定の子孫が忠臣蔵の一方の当事者となった吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)である。現在、かつての東条城の城跡は古城公園として整備され、曲輪、土塁、堀の遺構が残っているほか、本丸の大手虎口のあった場所に中世の城郭を意識した模擬櫓門、そのわきに模擬櫓(物見櫓)が建っている。名鉄西尾線上横須賀駅からバス、古城公園下車。 出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報