川俣村(読み)かわまたむら

日本歴史地名大系 「川俣村」の解説

川俣村
かわまたむら

[現在地名]栗山村川俣

標高二〇〇〇メートルを超す帝釈たいしやく山・鬼怒沼きぬぬま山などの連なる帝釈山地と、太郎たろう山・於呂倶羅おろぐら山などの日光連山に挟まれた地域に位置し、中央を鬼怒沼を源とする鬼怒川が東流する。中心部には川俣温泉、鬼怒川上流部には日光沢につこうざわ温泉・手白沢てしろざわ温泉・加仁かに湯・八丁はつちようの湯・女夫淵めおとぶち温泉がある。日光・今市に通じる道は、東端のかや峠を東進して大笹おおざさ峠から南下する経路と、萱峠をそのまま南進して富士見ふじみ峠を越える経路とがあった。また北西の会津檜枝岐ひのえまた(現福島県南会津郡檜枝岐村)とは引馬ひきば峠で結ばれ、西は蒸巣つばくろす山などを境に上野国利根とね郡と接する。地名は集落の中心が鬼怒川源流と馬坂うまさか沢などの合流する地点に位置していることにちなむという。なおこの中心集落は、昭和三二年(一九五七)川俣ダムの起工に伴い川俣湖底に沈んだ。

近世はおおむね日光領。寛文六年(一六六六)日光領総検地により、反別は畑・屋敷のみで三一町七反三畝、高七七石余が確定(「検地帳」山口栄文書)、以後の高は変わらない。年貢は定免金納で金八両余、また日光山本坊御殿役所から栗山七ヵ村名主に宛てた覚(百目鬼彦四郎文書)によれば、いつの頃からか不明であるが、年々本坊御殿へ蕎麦一石五斗を上納している。栗山郷一〇ヵ村の一つとして、享保一三年(一七二八)・安永五年(一七七六)・天保一四年(一八四三)の将軍日光社参や法会の節には、日光街道鉢石はついし宿(現日光市)の加助郷として人足五―八人が命ぜられている(「人馬割合触出帳」阿久津広太文書)。また日光北街道大渡おおわたり(現今市市)への加助郷役や(「大渡村明細帳」大貫貞二文書)、日光街道森友もりとも村と会津西街道大桑おおくわ宿(ともに現今市市)とを結ぶ脇道の道橋普請場への人足差出しも命ぜられている(「森友村明細帳」加藤広美文書)。なお大通行時には日光街道大沢おおさわ宿(現同上)地内丁場の道造助村にも加えられた(「日光御領石高家数人別掃除丁場控」関根矢太郎文書)


川俣村
かわまたむら

[現在地名]明和村川俣

利根川左岸にあり、東は梅原うめばら村、北は大佐貫おおざぬき村、西は須賀すか村。日光脇往還が通る。利根川の渡し(富士見の渡)は元和二年(一六一六)の関東一六渡津の一つである(徳川実紀)。地名は利根川と文禄三年(一五九四)締切られたあいの川が分岐していることに由来する。「館林城主記」によれば、慶長二年(一五九七)館林城主榊原康政により川俣村の堤ができたという。近世は初め館林藩領。寛文郷帳に田方一四九石九斗余・畑方二五六石余とある。


川俣村
かわまたむら

[現在地名]東大阪市川俣一―五丁目・川俣本かわまたほん町・川俣など

若江郡に属し、稲田いなだ村の南西にある。大和川付替えまでは東の村境を楠根くすね川、西の村境を長瀬ながせ川が流れていたので、川俣の名が生じたのであろう。古代川俣郷(和名抄)の地。「日本霊異記」中巻には、行基の法会に参加した若江郡川派かわまたの里の女人の話が載る。中世には、大江おおえ御厨の一部である河俣御厨があった。


川俣村
かわまたむら

[現在地名]君津市川俣旧川俣かわまたきゆうかわまた

ささ村の東に位置する。清澄きよすみ山を源流とする小櫃おびつ川本流と、元清澄もときよすみ山を源流とする笹川が当地で合流する。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に「川殿村」とあり、高九四石。正保国絵図に村名がみえ、高九〇石。元禄郷帳では高七三石余。村高の減少は、文禄の村高帳にみえない当村枝郷月毛つきげ村・押込おしごめ村が元禄郷帳では別に記されているためと考えられる。元禄三年(一六九〇)の検地帳(川俣区有文書)によれば反別七町四反余、うち田二町九反余・畑四町四反余・屋敷一反余。同一三年の川又村山検地帳(同文書)によると百姓山反別二町余。


川俣村
かわまたむら

[現在地名]上那賀町川俣

深森ふかもり村の南、古屋谷ふるやだに川上流の山間に位置し、東は山河内やまがわち(現日和佐町)、南は小川おがわ(現海南町)と接する。東西に分れて流れる古屋谷川は当村で合流する。川又村・川股村とも記す。海部かいふ郡に属し、古屋村の枝村。正保国絵図に「木頭之内川股村」とみえる。寛文四年(一六六四)の郷村高辻帳でも海部郡の内に木頭きとう(現木頭村・上那賀町)の枝村として村名がみえる。文化一〇年(一八一三)の高都帳では古屋村のうちに川又村がみえ高一二石余。天保郷帳には記載がなく、木頭村の高に含まれるとみられる。


川俣村
かわまたむら

[現在地名]矢部町黒川くろかわ

黒木尾くろきお村の南にある山間の村。応仁(一四六七―六九)頃とされる男成宮社頭注文(男成文書)に「川又」とあり、「春ハひ物まとたてのきやう、冬ハ一方のすまうきやう、おなしくまくさ」を献上している。慶長国絵図に村名がみえる。矢部手永に属したが正徳四年(一七一四)から一時期中島手永に移り、のち旧に復した。「国誌」は小村として小川を記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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