精選版 日本国語大辞典 「川合清丸」の意味・読み・例文・類語 かわい‐きよまる【川合清丸】 宗教家。国家主義思想家。伯耆国(鳥取県)の神官の家に生まれ、家職を継ぐ。のち上京して鳥尾得庵、山岡鉄舟らと日本国教大道社を創立し、「大道叢誌(そうし)」を発刊。神儒仏三道を国教とし、国粋思想の復興を説いた。著に「大和魂」「建国の大本」など。嘉永元~大正六年(一八四八‐一九一七) 出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例 Sponserd by
20世紀日本人名事典 「川合清丸」の解説 川合 清丸カワイ キヨマル 明治期の神道家,社会教育家 日本国教大道社設立者。 生年嘉永1年11月21日(1848年) 没年大正6(1917)年6月24日 出生地伯耆国河村郡(鳥取県東伯郡) 別名字=子徳,号=山陰道士 経歴神官の家に生まれ、太一垣神社社掌となる。のち鳥尾得庵に師事、上京して神儒仏統一の尊王愛国主義の国教創設を提唱し、明治21年日本国教大道社を創立、雑誌「大道叢誌」を発刊。25年学館大道館を設立し子弟の教育にあたった。以後30年にわたり活躍し、会員3万を超える国家主義の一勢力となった。著書に「川合清丸全集」(全10巻)、「大和魂」「建国の大本」など。 出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「川合清丸」の意味・わかりやすい解説 川合清丸かわいきよまる [生]嘉永1(1848).11.21. 伯耆[没]1917.6.24. 相模明治の社会教育家。字は子徳,諱は清丸,山陰道士,一加,惺々などと号した。代々太一垣神社の社掌で幼いときから神儒の学を修め,真教塾を創立して子弟を教育した。伏見,大坂などで儒学,仏典,キリスト教学などを学び,神儒仏三道一致を唱える。この三道は国家の根本精神とすべき教学,国民必須の学問であるとし,国家主義者の中枢となる。 1888年日本国教大道社を創立し,月刊『大道叢誌』を発行して所説を主張した。著書には『大和魂』『建国之大本』その他があり,『川合清丸全集』 (10巻) に収められている。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by
朝日日本歴史人物事典 「川合清丸」の解説 川合清丸 没年:大正6.6.24(1917) 生年:嘉永1.11.21(1848.12.16) 明治時代の神道家。伯耆国河村郡(鳥取県東伯郡)の神官の家に生まれる。長じて出郷し京阪と東京で儒仏学を研鑽する。日本国教社大道社を設立(1888)し,機関誌『日本国教大道叢誌』を刊行するとともに,大道学館を開設して青年の育成にも当たる。神儒仏の三教一致説を説き,三道が合して大道という。<参考文献>小谷恵造『川合清丸とその周辺』 (中野実) 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報 Sponserd by
デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「川合清丸」の解説 川合清丸 かわい-きよまる 1848-1917 明治-大正時代の宗教家。嘉永(かえい)元年11月21日生まれ。家職をついで太一垣神社社掌となる。のち東京で鳥尾小弥太に師事,神儒仏統一の国教創定をとなえた。明治21年日本国教大道社を創立し,雑誌「日本国教大道叢誌」を発行。大正6年6月24日死去。70歳。伯耆(ほうき)(鳥取県)出身。字(あざな)は子徳。号は山陰道士。 出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例 Sponserd by
367日誕生日大事典 「川合清丸」の解説 川合 清丸 (かわい きよまる) 生年月日:1848年11月21日明治時代の社会教育家。太一垣神社社掌1917年没 出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報 Sponserd by