日本大百科全書(ニッポニカ) 「市場論争」の意味・わかりやすい解説
市場論争
しじょうろんそう
polemic on the market 英語
polémique sur les débouchés フランス語
Polemik über den Absatzmarkt ドイツ語
市場とは、日常一般には商品が交換され実現されるところをさすが、社会的分業・商品生産が発達してくると特定の場所・建物だけでなく、もっと抽象的・包括的概念として経済学に現れる。市場の形成・発達は微弱な地方分散的市場から始まってしだいに拡大し、広範な国内市場に達する。さらに外国市場を必要とするようになるが、このように資本主義が成立するとともに市場理論も生まれた。
国内市場は資本主義の発展程度に制約され、生産に関しては生産手段と労働力に対する需要としての市場を形成し、個人的消費に関しては労働者と資本家の消費資料に対する需要としての市場を形成する。この両市場のうち、資本主義の発達は、機械制大工業以来とくに生産手段に関する市場を消費資料に関する市場よりも増大させる。この不均等な発展は資本主義を不可能にする(ナロードニキなどの主張)のではなく、資本主義における生産力を発展させ資本主義が歴史的進歩性をもつとともに過渡的形態にすぎないことを示す。市場の理論とは、商品生産・資本主義的生産における商品の実現を取り扱い、資本主義社会全体が素材的に価値的にどのように他の商品で補填(ほてん)される市場をみいだすかを示す理論であり、それは再生産論(実現理論)と同じことになる。
この市場における商品の実現をめぐる論争が19世紀以来おこり、これを市場論争という。商品の実現だから恐慌論争でもある。
19世紀初頭のナポレオン戦争後の1819年前後の過渡的恐慌を背景として、シスモンディ、マルサス対セー、リカード、マカロックのイギリス、フランスを舞台とするいわゆる古典的恐慌論争で市場論争は始まる。
シスモンディは1819年の『経済学新原理』で資本主義的生産の矛盾から当時の恐慌を看取し、資本と所得の区別を強調して資本蓄積における所得拡大の必要の観点にたち、恐慌の原因をもっぱら労働者階級の所得不足(消費資料市場の不足)、過少消費に求めた。マルサスも翌年『経済学原理』で恐慌の原因を不生産階級である地主階級の過少消費に求め、資本蓄積の拡大は不生産的消費による有効需要増大で可能になると説いた。いずれも恐慌論としては過少消費説といわれるものである。これに対してセーは、すでに1803年の『経済学概論』で「販路理論」を展開し、生産物は生産物でのみ買われるから生産物の販路(実現)は他の生産物をつくることでみいだすことができ、販売と購買は均衡しうるとしていた。過剰生産の否定である。だがシスモンディの恐慌認識の批判にあうや、セーはこの論争で販路理論に基づく部分的恐慌を主張する。すなわち、生産部門間の均衡を失うときにのみ部分的恐慌になるとして、一般的恐慌を否定した。もともとシスモンディを最初に批判したのは販路理論によるマカロックで、シスモンディの新原理が出た年になされた。リカードもこの販路理論にたっていた。以上のシスモンディ、マルサスの過少消費説対セーの販路理論は、恐慌を中心に置いた市場の問題についての論争であった。
次は、1837年と1847年の恐慌を契機とするドイツでのロートベルトゥス対フォン・キルヒマンの論争である。これは、労働者階級の賃金減少(労働者階級の消費資料需要の減少=市場縮小)を恐慌の直接原因とするロートベルトゥスに対し、分配の不均衡による販路(=市場)の欠乏からの部分的恐慌をいうフォン・キルヒマンの対応であり、先の古典的恐慌論争の過少消費説対販路理論の再版にすぎなかったし、論争内容もむしろ後退したものであった。
第三は、19世紀末のロシアを舞台とし、ナロードニキ、合法マルクス主義者、レーニンの三者間の、ロシア資本主義の発展の可能性をめぐる論争である。ここでは国内市場の形成をめぐる問題や資本主義の支配のもとでの市場問題が中心であった。
さらに20世紀初頭には、カウツキー、R・ルクセンブルク、O・バウアーその他の間での論争、第一次世界大戦後にはブハーリン、グロースマン、シュテルンベルクその他の間での論争があった。これらは恐慌論争でもあり、また資本主義の崩壊をめぐる論争でもあった。
なお、1885年にはマルクスの再生産表式が現れており、第三の論争以降は、いずれの問題に関しても再生産表式をめぐって展開されたものであって、再生産論争としてみることもできる。
[海道勝稔]
『岡稔著『再生産論をめぐる論争史』(『講座・資本論の解明』第3分冊所収・1952・理論社)』▽『豊倉三子雄著『古典派恐慌論』(1959・弘文堂)』▽『ローザ・ルクセンブルク著、長谷部文雄訳『資本蓄積論』(岩波文庫・青木文庫)』