市山村(読み)いちやまむら

日本歴史地名大系 「市山村」の解説

市山村
いちやまむら

[現在地名]桜江町市山

後山うしろやま村・小田おだ村の南、八戸やと川中流域左岸に位置。日和ひわ川・たま川などが八戸川に合流する氾濫原に耕地がある。南はふなヶ峠を境に津和野藩長谷ながたに村。

〔中世〕

暦応二年(一三三九)八月二日の小笠原貞宗代武田弥三郎入道軍忠状(庵原家文書)によると、同年七月五日北朝方の「市山城」へ南朝方の新田左馬助(義氏)・福屋孫太郎・高津余二(長幸)津野(都野)神主・長瀬八郎らが攻め寄せたため、同月七日に河本かわもと(現川本町)一方地頭小笠原信濃守貞宗の代官武田弥三郎入道や小笠原長氏・土屋彦太郎らが援軍として同城へ向かったところ、南朝方が退いたので追撃したという。康正(一四五五―五七)頃の某書状(吉川家文書)では市山などの騒乱が吉川氏に報じられているが、これは当地のことであろう。天文(一五三二―五五)末から弘治年間(一五五五―五八)にかけての石見守護大内氏の滅亡と、永禄(一五五八―七〇)初年にかけての毛利氏の石見侵入という混乱のなかで、福屋ふくや(現那賀郡)本拠をもつ福屋氏は毛利氏と結び、尼子氏と結んだ河本郷の小笠原氏とこの地域をめぐって争ったと推測され、永禄初年頃には福屋氏の支配となっている。

永禄四年石見国をほぼ掌握した毛利氏に対し、福屋氏は反旗を翻した。同年一二月毛利・吉川両氏から市山の土豪層に帰属勧誘が行われ、これに応じた市山の土豪は井下三郎兵衛・河辺美作守・井下加賀守・門田民部丞・寺本伊賀守・井下新兵衛・米原東市介・寺本玄蕃允・米原右衛門尉らであった(一二月一日「吉川元春神文」藩中諸家古文書纂)


市山村
いちやまむら

[現在地名]菱刈町市山

南西へ流れる川内せんだい川支流市山川南岸にある。西は大口郷原田はらだ(現大口市)・同郷花北はなきた村、南は本城ほんじよう重留しげとめ村・馬越まこし田中たなか村、北は大口郷青木あおき(現大口市)と接する。古くは入山いりやまと称し、戦国期には市山(一山)となったとされる(町田氏正統系譜)

永禄一〇年(一五六七)一一月二四日、菱刈氏の本城馬越まこし城が島津氏に攻略されると、菱刈氏は大口城に籠ったが、このとき同氏が放棄した城の一つに一山城があった(「島津貴久譜」旧記雑録など)。島津氏の手に落ちた後、市来備後守家利・伊集院久慶らが市山城の守将となったが、同年一二月二九日の大口城攻撃で家利・久慶らは西の河原口で討死し、代わって新納忠元が配された(「新納忠元勲功記」など)。同一一年二月二八日には島津忠長・肝付兼寛が市山城に来て忠元と大口城攻めについて相談している(「島津忠長譜」旧記雑録など)。三月二三日には肥後相良氏・菱刈氏らの兵が曾木そぎ(現大口市)から馬越城を過ぎて市山城を攻撃、忠元らは白坂口・永福寺えいふくじ口などで防戦した(「長谷場越前自記」「箕輪伊賀覚書」同書など)。翌永禄一二年九月菱刈氏が島津氏に降ると忠元は大口地頭に任じられて大口城へ入った(前掲勲功記)


市山村
いちやまむら

[現在地名]天城湯ヶ島町市山

狩野かの川上流の東岸段丘上にある谷間の村で、北は田沢たざわ村。下船原助しもふなばらすけ神社の天文二年(一五三三)社殿造営勧進者を記すなかに「いちやま道圭わた三まい」とみえる(同年九月二四日棟札銘)。当地天神社の同三年九月二三日棟札銘に「狩野庄櫟山村百姓中」とあり、地頭石巻殿とともに社殿を造営している。北条氏所領役帳に北条家臣御馬廻衆石巻下野守家貞の所領として二〇貫文「豆州櫟山」とある。天神社の棟札銘には「椎山」とも記されていたという(増訂豆州志稿)

文禄四年(一五九五)一一月代官頭彦坂元正による検地が行われ、反別は田方一三町八反余・畑方七町九反余・屋敷九反余、村高二二五石余が確定した(市山区有文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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