市川 鰕十郎(5代目)
イチカワ エビジュウロウ
- 職業
- 歌舞伎俳優
- 本名
- 久保田 鰕十郎
- 別名
- 初名=中村 駒三郎,前名=市川 米十郎(2代目),中村 梅若,俳号=新升
- 屋号
- 播磨屋
- 生年月日
- 嘉永5年
- 経歴
- 3代目中村芝翫に弟子入りし中村駒三郎を名乗り、上方の宮地・浜芝居で修業。のち4代目市川小団次の門に転じ養子となり2代目市川米十郎と改名。安政5年(1858年)江戸に行き市村座「江戸桜清水清玄」に養父と共に勤める。慶応元年(1865年)中村座「綬三升小春採物」に敵役として股井十五郎・錦戸太郎・伯父助右衛門の3役をこなす。のち養父と不仲となり米十郎を返上して中村梅若と改める。上方に行き、明治元年大阪・堀江芝居「大岡才智捌」に雲きり仁左衛門・石河伴作・桔梗屋五郎兵衛・鐘馗半兵衛の4役を演じた。2年大阪角座「大功記」で2代目尾上多見蔵の引き立てもあって5代目鰕十郎を襲名。その後は大阪角座付の俳優として初代市川右団次と共に活躍。また京都新京極・大谷座の座頭を勤める。36年大阪・弁天座に勤めた後、同年9月神戸・相生座で塩原の角右衛門と実盛を演じていたが、心臓病を起こし大阪の自宅で療養する。10月療養中に死去。時代物と世話物に適し、敵役を得意とし「忠臣蔵」の師直、「天満宮」の道実と長谷雄、「一谷」の熊谷などが当たり役で、実事・老役を兼ねた。晩年は嵐巌笑と人気を競ったが大成することなく没した。早世した2代目鰕十郎(1806〜1829)が父親との説あり。
- 没年月日
- 明治36年 10月7日 (1903年)
市川 鰕十郎(6代目)
イチカワ エビジュウロウ
- 職業
- 歌舞伎俳優
- 本名
- 樋口 弥三郎
- 別名
- 前名=浅尾 朝丸,市川 滝十郎
- 屋号
- 播磨屋
- 生年月日
- 明治2年 3月21日
- 出生地
- 東京・牛込
- 経歴
- 明治3年両親と共に大阪に下る。3代目浅尾与六の門人となり浅尾朝丸を名乗り、9年正月7歳で大坂筑後芝居で初舞台。のち実川若美の門人となり実川玉太郎と改め、大阪・八千代座、京都・恵比須座に務める。その後、7代目市川団蔵の門下に入り、2代目市川滝十郎を襲名。大正9年6代目市川鰕十郎と改名。のち初代中村鴈治郎一座に加わり、関西歌舞伎界の中堅幹部として活躍。明治・大正・昭和の3代に渡り敵役を務め、舅役に老朽な芸をみせた。
- 没年月日
- 昭和4年 10月14日 (1929年)
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報
市川 鰕十郎(5代目)
イチカワ エビジュウロウ
明治期の歌舞伎俳優
- 生年
- 嘉永5年(1852年)
- 没年
- 明治36(1903)年10月7日
- 本名
- 久保田 鰕十郎
- 別名
- 初名=中村 駒三郎,前名=市川 米十郎(2代目),中村 梅若,俳号=新升
- 屋号
- 播磨屋
- 経歴
- 3代目中村芝翫に弟子入りし中村駒三郎を名乗り、上方の宮地・浜芝居で修業。のち4代目市川小団次の門に転じ養子となり2代目市川米十郎と改名。安政5年(1858年)江戸に行き市村座「江戸桜清水清玄」に養父と共に勤める。慶応元年(1865年)中村座「綬三升小春採物」に敵役として股井十五郎・錦戸太郎・伯父助右衛門の3役をこなす。のち養父と不仲となり米十郎を返上して中村梅若と改める。上方に行き、明治元年大阪・堀江芝居「大岡才智捌」に雲きり仁左衛門・石河伴作・桔梗屋五郎兵衛・鐘馗半兵衛の4役を演じた。2年大阪角座「大功記」で2代目尾上多見蔵の引き立てもあって5代目鰕十郎を襲名。その後は大阪角座付の役者として初代市川右団次と共に活躍。また京都新京極・大谷座の座頭を勤める。36年大阪・弁天座に勤めた後、同年9月神戸・相生座で塩原の角右衛門と実盛を演じていたが、心臓病を起こし大阪の自宅で療養する。10月療養中に死去。時代物と世話物に適し、敵役を得意とし「忠臣蔵」の師直、「天満宮」の道実と長谷雄、「一谷」の熊谷などが当たり役で、実事・老役を兼ねた。晩年は嵐巌笑と人気を競ったが大成することなく没した。早世した2代目鰕十郎(1806〜1829)が父親との説あり。
市川 鰕十郎(6代目)
イチカワ エビジュウロウ
明治・大正期の歌舞伎俳優
- 生年
- 明治2年3月21日(1869年)
- 没年
- 昭和4(1929)年10月14日
- 出生地
- 東京・牛込
- 本名
- 樋口 弥三郎
- 屋号
- 播磨屋
- 経歴
- 明治3年両親と共に大阪に下る。3代目浅尾与六の門人となり浅尾朝丸を名乗り、9年正月7歳で大坂筑後芝居で初舞台。のち実川若美の門人となり実川玉太郎と改め、大阪・八千代座、京都・恵比須座に務める。その後、7代目市川団蔵の門下に入り、2代目市川滝十郎を襲名。大正9年6代目市川鰕十郎と改名。のち初代中村鴈治郎一座に加わり、関西歌舞伎界の中堅幹部として活躍。明治・大正・昭和の3代に渡り敵役を務め、舅役に老朽な芸をみせた。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
市川鰕十郎(初代)
没年:文政10.7.16(1827.9.6)
生年:安永6(1777)
江戸中・後期の歌舞伎役者。俳名新升。屋号播磨屋。4代目市川団蔵の門弟。市川市蔵の名で子供芝居,中芝居で修業し,23歳の冬,大坂中の芝居に立役二枚目として初舞台を踏む。おいおい昇進したが,32歳のとき師団蔵が死去。以後姓を市ノ川と改め,34歳で江戸森田座に下った。容姿,音調,技力に優れた彼は江戸の気風にも合い,実悪上上吉となる。39歳のとき7代目市川団十郎と師弟契約し,市川鰕十郎と改名。その冬帰坂,以後3代目中村歌右衛門と一座して「有職鎌倉山」の三浦荒次郎など数々の名演を残した。彼の演技があまりに憎々しく,客が物を投げつけたところ,「敵役の本望」とこれを押し戴いたという逸話がある。鰕十郎の名跡は昭和初年まで続き,6代を数えた。
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
市川鰕十郎(5代) いちかわ-えびじゅうろう
1852-1903 幕末-明治時代の歌舞伎役者。
嘉永(かえい)5年生まれ。3代中村芝翫(しかん),4代市川小団次の門人。明治2年5代鰕十郎を襲名,大阪角座付の役者として活躍。敵役を得意とし実事(じつごと),老役(ふけやく)をかねた。明治36年10月7日死去。52歳。本名は久保田鰕十郎。初名は中村駒三郎。前名は市川米十郎(2代),中村梅若。俳名は新升。屋号は播磨(はりま)屋。
市川鰕十郎(6代) いちかわ-えびじゅうろう
1869-1929 明治-昭和時代前期の歌舞伎役者。
明治2年3月21日生まれ。大阪の3代浅尾与六,7代市川団蔵の門にはいる。大正9年6代鰕十郎を襲名。のち初代中村鴈治郎一座にくわわり,舅(しゅうと)役に老巧な芸をみせた。昭和4年10月14日死去。61歳。東京出身。本名は樋口弥三郎。初名は浅尾朝丸。前名は実川玉太郎,市川滝十郎。屋号は播磨(はりま)屋。
市川鰕十郎(初代) いちかわ-えびじゅうろう
1777-1827 江戸時代後期の歌舞伎役者。
安永6年生まれ。4代市川団蔵に入門し,寛政元年市川市蔵として大坂で初舞台。文化6年から江戸で出演,12年7代市川団十郎の門弟となり鰕十郎を名のる。実悪(じつあく),老役(ふけやく)を得意とし,立ち回りや早替わりにもすぐれた。文政10年7月16日死去。51歳。俳名は新升。屋号は播磨(はりま)屋。
市川鰕十郎(2代) いちかわ-えびじゅうろう
1806-1829 江戸時代後期の歌舞伎役者。
文化3年生まれ。初代市川鰕十郎の子。文化12年大坂角座で初舞台。14年父の名跡をついで2代市川市蔵と名のり,さらに文政11年2代鰕十郎を襲名。実悪(じつあく)で世評がたかまったが,文政12年11月24日24歳で死去。初名は市川助蔵。俳名は新升。屋号は播磨(はりま)屋。
市川鰕十郎(3代) いちかわ-えびじゅうろう
1787-1836 江戸時代後期の歌舞伎役者。
天明7年生まれ。中山紋十郎のち初代鰕十郎の門弟。大坂で浜芝居の座頭をつとめ,文政13年3代中村歌右衛門の引き立てで3代鰕十郎を襲名。敵役の上手として知られた。天保7年9月12日死去。50歳。初名は中山甚吉。前名は市川滝十郎。俳名は扇升,新升。屋号は播磨(はりま)屋。
市川鰕十郎(4代) いちかわ-えびじゅうろう
1809-1858 江戸時代後期の歌舞伎役者。
文化6年生まれ。大坂で修業し,江戸の7代市川団十郎の門弟となる。天保(てんぽう)15年大坂角座で4代を襲名。武道事にすぐれた。安政5年10月19日死去。50歳。初名は松島巳之助。前名は市川市十郎。俳名は眼玉。屋号は小紅屋。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例