市庭町(読み)いちにわちよう

日本歴史地名大系 「市庭町」の解説

市庭町
いちにわちよう

[現在地名]尼崎市東本町ひがしほんまち三―四丁目

城の東側、東大手橋東詰の北側に位置し、北は大物だいもつ川を挟んで大物町、中央を南北に、南端東西に中国街道が通り別所べつしよ町との境となる。中世は尼崎四町のうちの一町。正和四年(一三一五)一〇月六日の裏書をもつ大覚寺絵図(大覚寺蔵)には大覚だいかく寺門前の南側に「市庭」の記載がみられ、同地に定期的な市が立っていた。文安二年(一四四五)兵庫北関入船納帳によれば、同年七月二八日に兵庫に入港した尼崎船籍の船の船頭二郎三郎をはじめとして、左近二郎や又五郎など、市庭に居住する船頭の名が散見される。明応五年(一四九六)には「市庭南町」に所在する屋地(家三軒・地子九〇〇文)が湯浅宗祐から同寺に寄進されている(同年一〇月二二日「湯浅宗祐田地寄進状」大覚寺文書)


市庭町
いちばちよう

[現在地名]八幡市八幡〈土井・山柴〉

放生ほうじよう川と常盤ときわ道との間にある南北の道沿いにあって、北の高橋たかはし筋から南の安居橋あんごばし筋までの東片側町並。北は高橋町へ続く。常盤郷に属し、柴座しばのざ町の一角とみられた(男山考古録)。市場とも記す。中世は山路やまじ郷の地。

石清水いわしみず八幡宮宿院と放生川を挟んで対面する当町は、康平六年(一〇六三)三月晦日に「別当社務清秀、於宿院河原始午市、経両三年之後立副子市」(宝殿并末社等建立記)とあるように市が立てられて以来、宿院門前という好条件とともに、淀川堤に続く常盤道と、奈良や河内へ至る大道おおみちとの中継点として賑った。


市庭町
いちにわちよう

[現在地名]西宮市市庭町・神楽町かぐらちよう宮西町みやにしちようなど

西宮町の西端に位置し、西宮神社の西にある。西行して同神社の表大門(赤門)に突き当り、南に曲がって神社の塀沿いに西へ向かう山陽道に沿う。東は社家町。西宮町の町方一五町の一(「西宮町石高町数等書上」岡本家文書)。延慶二年(一三〇九)八月二四日の広田社神官供僧等言上状(温故雑帖)に「南宮御後市津料銭事」として「市庭」がみえ、なん宮敷地内にある市庭は南宮の後ろ側にあって西宮の真ん中にあるとされている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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