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平信範 たいらの のぶのり

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

平信範 たいらの-のぶのり

1112-1187 平安時代後期の公卿(くぎょう)。
天永3年生まれ。平知信(とものぶ)の子。累進して蔵人頭(くろうどのとう)となるが,嘉応(かおう)元年延暦寺(えんりゃくじ)衆徒の強訴(ごうそ)に際し,「奏事不実」の罪名で備後(びんご)(広島県)に流される。翌年ゆるされ,承安(じょうあん)3年兵部卿となり,安元2年正三位にのぼった。文治(ぶんじ)3年2月12日死去。76歳。字(あざな)は平能。日記に「兵範記」。

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朝日日本歴史人物事典の解説

平信範

没年:文治3.2.12(1187.3.23)
生年:天永3(1112)
平安後期の官人,公卿。桓武平氏高棟王流の知信と藤原惟信の娘との子。兄時信の子に時忠,平清盛の妻時子,建春門院滋子らがある。父祖同様,能吏の聞こえが高く,少納言,弁官,蔵人頭を歴任する一方,摂関家歴代の家司や鳥羽・後白河院司としても活躍した。延暦寺と後白河上皇の抗争に巻き込まれ,一時期流罪の憂き目をみたが,間もなく復活,昇進し,治承1(1177)年の出家時には,正三位兵部卿の地位にあった。元来「にき(日記)の家」に生まれたうえに(『今鏡』),かかる経歴を加えた彼の日記『兵範記』は,特に朝政・儀式の次第について精細を極め,自己の知識を誇る文言を随所にちりばめている。

(杉橋隆夫)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

平信範
たいらののぶのり
(1112―1187)

平安時代末期の貴族。一族が多くの日記を残すなど、文官として活動する家に生まれたが、遡れば平清盛らの武家平氏と同じ桓武平氏に属する。彼の日記『兵範記(へいはんき)』も当該期の重要史料。平清盛の妻時子(二位尼)、高倉天皇の生母である滋子(建春門院)、清盛の権勢を支えた平時忠らの叔父にあたる。1166年(仁安1)に摂関家領三河国志貴荘(しきのしょう)の預所(あずかりどころ)に任命されたのは清盛の計らいであった。父知信は公卿に昇ることができず、信範自身も文章生(もんじょうしょう)から始まり、のち権右中弁や蔵人頭をつとめ、実務官人としての経歴を重ねて公卿へと昇った。鳥羽院や後白河院の院司、摂関家の藤原忠通や基実らの家司(けいし)もつとめ、1169年(嘉応1)には延暦寺と院近臣の衝突に連座して一時的に解官や配流の憂き目にあった。1171年(承安1)に従三位となって公卿に列し、1173年(承安3)に兵部卿、1176年(安元2)に正三位へと昇進。1177年(治承1)に出家した。[松島周一]
『五味文彦著「紙背の信範、晩年の信範」(『平家物語、史と説話』所収・1987・平凡社)』

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世界大百科事典内の平信範の言及

【兵範記】より

…平安末期の公卿,兵部卿平信範(1112‐87)の日記。〈ひょうはんき〉とも読み,記主の名から《人車記》《平信記》などともいう。…

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