日本大百科全書(ニッポニカ) 「平信範」の意味・わかりやすい解説
平信範
たいらののぶのり
(1112―1187)
平安時代末期の貴族。一族が多くの日記を残すなど、文官として活動する家に生まれたが、遡れば平清盛らの武家平氏と同じ桓武平氏に属する。彼の日記『兵範記(へいはんき)』も当該期の重要史料。平清盛の妻時子(二位尼)、高倉天皇の生母である滋子(建春門院)、清盛の権勢を支えた平時忠らの叔父にあたる。1166年(仁安1)に摂関家領三河国志貴荘(しきのしょう)の預所(あずかりどころ)に任命されたのは清盛の計らいであった。父知信は公卿に昇ることができず、信範自身も文章生(もんじょうしょう)から始まり、のち権右中弁や蔵人頭をつとめ、実務官人としての経歴を重ねて公卿へと昇った。鳥羽院や後白河院の院司、摂関家の藤原忠通や基実らの家司(けいし)もつとめ、1169年(嘉応1)には延暦寺と院近臣の衝突に連座して一時的に解官や配流の憂き目にあった。1171年(承安1)に従三位となって公卿に列し、1173年(承安3)に兵部卿、1176年(安元2)に正三位へと昇進。1177年(治承1)に出家した。
[松島周一]
『五味文彦著「紙背の信範、晩年の信範」(『平家物語、史と説話』所収・1987・平凡社)』