日本歴史地名大系 「平戸オランダ商館跡」の解説
平戸オランダ商館跡
ひらどおらんだしようかんあと
平戸湊に臨むオランダ東インド会社の商館跡。平戸和蘭商館跡として国指定史跡。平戸城下町の北東部にあたり、
〔平戸商館の開設と初期の貿易〕
慶長一四年(一六〇九)五月三〇日オランダ船二隻が平戸に入港、平戸初代藩主松浦鎮信は上級商務員のアブラハム・ファン・デン・ブルークとニコラス・ポイクらを通商許可を得るために駿府に赴かせたところ、八月一二日に徳川家康に謁見、来航許可を受け、九月一三日平戸に帰った(同年七月「徳川家康朱印状案写」異国日記など)。同月二〇日の両船の合同会議で平戸に商館を開設することを決定、フリフィウン号の下級商務員ジャック・スペックスを商館長とした。こうして平戸は東アジア海域でのオランダ貿易拠点となるが、一六一〇年・一六一三年にはオランダ船の来航がなく、当初は日本市場を貿易の相手としていなかったらしい。しかし一六一五年以降に入港が増加、貿易量も増大していく。一六一七年(元和三年)マニラ近海で唐船から奪った荷を平戸に入れているが、うち生糸一〇万六千九九七斤は徳川将軍家に一部を献上したほか日本国外(モルッカ諸島、アンボイナ、バンタム、ジャカトラなど)に売出している。当時のオランダは略奪した物品を平戸にいったん荷揚げし、また平戸で銀や食糧品・鉄材・木材・鉄砲・刀剣類など軍用品かと思われる物資を調達し、日本人戦闘員を雇用していたので、交易対象というよりはアジア戦略の拠点とみなしていたようである。
元和七年七月幕府は平戸城主を通じて当商館長およびイギリス商館長に対して、雇用・人身売買を問わず日本人を国外に連出さないこと、刀剣・鉄砲などの武器輸出の禁止、公儀の領内における日本船・唐船・ポルトガル船への海賊行為の禁止という通告を出しており(「細川家記」「イギリス商館長日記」など)、実際に平戸で武器密輸を計画した明人二人とその売却にかかわった日本人五人が磔刑・斬首刑に処されている(日本大王国志)。これはオランダに戦略の大幅な変更を迫り、いわば海賊から商人に転じることを求めることで、中国の生糸などを確保して日本市場を交易対象にする方針を選択させることになるが、しかし日本商人と衝突する事態となっていく。当時の朱印船は台湾(タイオワン)に渡って明人と出会い貿易を行っていたが、寛永元年(一六二四)台湾南部にゼーランディア城を築いて貿易を拡大しようとしていたオランダ人がこの朱印船に課税しようとしたため同五年に対立、長崎代官の末次平蔵持の船長浜田弥兵衛がタイオワン長官ヌイツを監禁し、ヌイツがその報復に船の乗組員を圧迫したため事件は紛糾していった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報