日本歴史地名大系 「平田庄」の解説
平田庄
ひらたのしよう
- 奈良県:北葛城郡
- 平田庄
広瀬郡・葛下郡にわたって散在した荘園。「康平記」康平五年(一〇六二)正月一三日条の、関白藤原頼通の「春日詣定」に「秣蒭、平田御庄」とあり、すでに摂関家領であったことがうかがえる。秣役をつとめたものである。次いで藤原頼長の日記「台記別記」の仁平元年(一一五一)六月二六日条の「可参春日社給雑事」の「饗」のうちに「前駈料卅前、平
鎌倉期には、摂関家が五摂家に分れた関係で、平田庄は近衛家領となり、以後も同家領として存続したと考えられる。その間、おそらく師実のとき、同庄年貢が相折(半分か)されて春日社等に寄進されている。前記近衛家所領目録の「年貢寄神社仏寺所々」のうちに「京極殿領内大和国平田庄以年貢相
その後の領家は「大乗院雑事記」の文明元年一一月二二日条では「一乗院領平田庄」とあるので、興福寺一乗院がなった。
平田庄
ひらたのしよう
厚見郡内にあった京都長講堂領庄園。現岐阜市街の南部に比定される。庄内に
天徳四年(九六〇)一二月二七日の太政官牒(東南院文書)に奈良東大寺領の
平田庄
ひらたのしよう
現在の大朝町
平田庄
ひらたのしよう
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報